罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼
松本雅弘牧師
マラキ書3章1-4節
ルカによる福音書3章1-6節
2021年12月5日
Ⅰ. 主の再臨を待ち望むために
教会の暦ではアドベントから新しい年が始まります。そしてアドベントの期間、講壇の布も緑から紫、ちょうど主イエスのご受難を覚える受難節と同じ色、悔い改めを迫る色に変わりました。歴史の教会は、クリスマスを待ち望むこの季節、私たち信仰を持つ者に対し悔い改めを促してきたのです。今日、第二アドベントの朗読の箇所は、老ザカリアとエリサベトの間に生まれたヨハネが成人し、罪の赦しを得させる罪の悔い改めの洗礼を宣べ伝え始めた時のことが語られています。
Ⅱ.洗礼者ヨハネの宣教
時はローマの皇帝がティベリウスの治世15年とあります。そして私たちに馴染みのポンテオ・ピラトの名も出て来ます。クリスマスの出来事の直後、ベツレヘム周辺で、幼児大虐殺を決行したヘロデ大王は死に、その後、次々と問題が起こっていたユダヤを治めるために、ローマ皇帝ティベリウスによって派遣されていたのが総督ポンテオ・ピラトでした。
この時代、ユダヤでは誰が何をしていたかと言えば、1節に「ヘロデ」という名前が出て来ますが、これはベツレヘムで大虐殺を決行したヘロデ大王ではなく、その息子ヘロデ・アンテパスという人物です。彼が領主としてガリラヤを治めていました。さらにヘロデの兄弟フィリポが、イトラヤとトラコン地方を治め、リサニアという領主がアビレネを統治していた時代でした。一方、宗教界では表向きはカイアファが仕切っているように見えましたが、実は陰で彼を操っていたのが舅のアンナスであったことを福音書記者ルカは見逃しませんでした。そのような時代に、洗礼者ヨハネが登場したのだ、と語るのです。
登場したヨハネは、ユダヤの荒れ野に現れ、「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えます。そのヨハネの言葉に人々の心は強く動かされました。ヨハネの説教によって、自らの人生の土台が脅かされる恐怖を経験し、洗礼を授けて欲しいと求めたのです。
この時代のユダヤ教では、民族的にユダヤ人であるかどうかが神の民の条件でした。ところがヨハネは、「そうではない!血肉のユダヤ人なんか、そこらに転がっている石ころからでも生み出すことができる」と断言したのです。聞いたユダヤ人たちは、お尻に火が付いたかのように、これは一大事と思ったのでしょう。その数は膨れ上り「群衆」となった。彼らはヨハネの許にやってきて、「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねたというのです。その中に複数の兵士たちもいて、群衆と全く同じ問いかけ、「この私たちはどうすればよいのですか」と尋ねています。これに対してヨハネは、「自分の給料で満足せよ」と語っています。私は、このヨハネの言葉が心に響きました。人生にしっかりとした土台を持つ者がいただく幸いを示している言葉として心に聞こえてきたからです。このヨハネこそ、実に、「深い満足を経験していた人」だったのではないかと思うのです。
Ⅲ.ヨハネの対極にいる人物―サウル王の場合
ところで、現在、木曜会ではサムエル記を共に読んでおりますが、洗礼者ヨハネのことを覚える時に、対極にいる人物としてサムエル記に登場する、イスラエルの初代の王サウルのことを思い出すのです。
サウルは家柄も良し、見た目も良しの申し分のない人物で、イスラエルの民が彼を、イスラエル初代の王として担ぎ上げたのも十分理解できます。ところが彼は、と言うと、劣等感の塊のような男だったのです。サムエル記を読みますと、子どもほど歳の離れた部下のダビデを「ライバル視」し、本当に心休まることのない人生を送った人です。
こんなことが起こります。若いダビデがペリシテの巨人ゴリアトと戦って勝利したのです。最初、ダビデを抜擢したのがサウル王さま自身でしたので、それを喜んだのですが、ダビデが出陣するたびに、戦いに勝利し、手柄を上げ戻って来る。しかも、民衆もあからさまに「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った」と歌い踊り、喜んでいる。そうしたことを知ったのをきっかけに、サウル王はダビデを妬むようになっていきます。
人の成功は、必ずしも全ての人から喜ばれるものではない。祝福されるものではないことを、私たちは歳を重ねる中で経験してきます。多少なりとも人の失敗には共感できても、他人の喜びに共感することがとても難しい。すぐに妬みの思いが湧いてしまうのが私たちの実態でしょう。サウルがそうだったのです。
彼はイスラエルの王です。最高権力者です。当時の人々が欲しいと思うモノを全て手中に収めていたような人物です。ところが、心の中は妬みで一杯。ダビデの存在の故に不幸となり、不機嫌になり、妬み、憎み、「あいつさえいなければ…。あいつがいるから…」とダビデを呪うようにして毎日を過ごす。でもどうでしょう。たとえダビデがいなくなったとしても、そのようなサウルには、「第二のダビデのような存在」がすぐに現れて来たと思います。何故なら、問題はダビデにあったのではなくて、サウルの心の在り方にあったからです。さて、これはサウルだけの問題でしょうか。
Ⅳ.神さまとの関係で自分を取り戻す
もう一度、ルカ福音書に戻りましょう。洗礼者ヨハネは、今お話ししましたサウル王とは対極にいた人物でした。ヨハネは、領主ヘロデによって殺されていくのですが、その直接の原因について聖書は、「ヨハネがヘロデの結婚を非難したから」と伝えています。「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とはっきり言ったので、ヨハネは逮捕されたのです。
ところが、その出来事を伝える聖書の箇所を読む時、殺される側のヨハネは実に堂々としているのに対し、殺す側のヘロデはびくびくしているのです。
今日の3章1節で、時のローマ皇帝と共に名を連ねるようなユダヤの権力者の一人がヘロデ・アンテパスでした。豪華な宮廷に住み、贅沢の限りを尽くしていた。軍隊に守られ、律法を破ってさえ、欲しいと思うものを手に入れようとする男でした。好き放題振舞うことができた人物が、このヘロデです。ところが、聖書によれば殺されるヨハネが生き生きと輝いていたのに対し、殺す側のヘロデが恐怖におののいていた。まさに「主客転倒」が起こっているのです。
ある集会で若者が、「みんな僕よりかっこよく、スポーツができ、優秀だと思ってしまうんです。それに比べ、自分なんかって感じです。どうしたらいいでしょう…。」と質問しました。講師は「あなたが人と比べ続ける限り、ずっと悩み続けますよ。」と答えたそうです。確かに講師のアドバイスは頭では分かります。しかし、それでも、人と比べてしまう。何でも周りの人を意識してしまうのでしょう。聖書はその問いかけに、しっかりと答えています。それは、本当に気にかけるお方の眼差しを忘れているから。それが答えです。
箴言に、「主を畏れることは知識の初めである」(箴言1:7)と書かれていますが、人は、まことの神さまを神さまとしないでいると、必ず、別の何かを「カミ様」のように大事にするという誘惑に陥ります。まことの神を神としないときに、お金がカミ様になったりします。地位や名誉がカミ様になり、自分の欲望や願い、また周囲の人々からの評価が自分を支える何かになってします。私を虜にしたりするわけです。
今日、御一緒に注目した、この洗礼者ヨハネは、「神さまと自分との関係」。「人生の縦軸」をしっかりと持っていた。慈しみ深い神さまのご支配、すなわち「神の国」に生きていました。神がその知恵をもってお許しにならないこと、良いことのためにお用いになることのできないことは、現実の自分に対して何も起こらないことを知っていた。その結果、ヨハネの心の底には神から来る平安があったのです。
ですから、王であろうが、ローマ総督であろうが、権力者であろうが、財界であろうが、神以外を畏れていませんから、だれに対しても率直で大胆に振舞うことができました。
洗礼者ヨハネは、神さまとの関係の中で、そのお方の愛を実感しながら生きていました。私たちも、ヨハネが勧めるように、神さま抜きの、他人との比較で右往左往する生き方に別れを告げて、悔い改めて、神を神とする生き方に方向転換し、主をお迎えする備えをさせていただきたい。
アドベントの季節、真に畏れるべきお方との縦の関係をもう一度見直し、すでに救いの恵みをいただいている者としての歩みを進めてまいりたいと願います。お祈りします。