誘惑との戦い

松本雅弘牧師
創世記9章1-7節
マタイによる福音書26章47-56節
2020年11月1日

Ⅰ.はじめに

主イエスは無力にもユダの手引きによってやってきた人々に逮捕されていかれます。今日はこの箇所から「誘惑」ということを切り口に、御一緒に読み進めていきたいと思います。

Ⅱ.イスカリオテのユダによる裏切り

主イエスが直面した誘惑の1つ目は、信頼していた者による裏切りによって引き起こされたものと言えるでしょう。この時、主イエスは3人の弟子と共にゲッセマネの園におられました。そこに現れたのが「十二人の一人であるユダ」で、彼に導かれるように大勢の群衆がやってきたのです。彼らの手には剣や棒という武器が握られていました。
ここで注目すべきはユダです。彼は十二弟子の一人で、ヨハネ福音書によれば仲間の財布を預かる財務担当の弟子だったと伝えています。ユダが財務担当だったということは、とりもなおさず彼が信頼される人物、みんなが信頼を寄せていたからでしょう。
この時、主イエスや弟子たちを襲った誘惑は、信頼を寄せていた人間に裏切られるという誘惑。自分の財布までも預けていた仲間、同じ釜の飯を食って来た仲間に裏切られる経験。そのようにしてサタンは主イエスと弟子たちに襲い掛かったのだと思います。

Ⅲ.自分の力でどうにかしようとさせる誘惑

さらに続けて、もう一つの誘惑が襲い掛かりました。神を信頼せず自分の力でどうにかしようとさせる誘惑です。ユダの接吻を合図に一部の者たちが主イエスに襲い掛かろうとしました。「イエスと一緒にいた者の一人」とありますが、同じ出来事を記録したヨハネは、その人はペトロだと伝えています。この時、ペトロは「剣を取る」という誘惑にさらされた。神のみ力により頼むのではなく、剣を抜いてでも自分でどうにかしなければという誘惑です。
私たちの身近に「剣」はありません。それでも、自分の力で、あるいは権力に訴えて思い通りにしようとさせる誘惑を経験することがあるのではないでしょうか。
全知全能の愛の神さまがおられ、そのお方は今も生きて働いておられる。にもかかわらず、その神さまに頼り切れていない。頼っていないわけですから、祈る気持ちも起きません。逆に、することと言えば、自分の頭で一生懸命考え、自分でどうにかしようと思い煩うのです。
ところで詩編127編2節に、「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」とありますが、この詩篇が伝えているのは、人間が日中の仕事を中断し眠っている夜において、神さまにあって、本質的な事柄は何もストップしていない、というメッセージです。神さまは働いておられる、ということです。
今日の聖書でペトロは、主を守ろうとして剣を抜きました。それに対して主は「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」とお語りになったのです。
主イエスというお方は、私たちに守ってもらわなければならないほど、弱くはないのです。必要があれば十二軍団以上の天使を呼ぶことだってお出来になる。しかし敢えてそうなさらない。それは十字架こそが、神の御心であると確信しておられたからです。ですから私たちは、ここにこそ自分の力でどうにかしようとさせる誘惑、力や権力に訴えても思い通りにしようとする誘惑から自由に生きる秘訣があるのではないでしょうか。

Ⅳ.「神の沈黙」の中で

さて、最後の誘惑ですが、十二軍団以上の天使を呼ぶことの出来るお方が、敢えてそうなさらないことから来る「神の沈黙」という誘惑です。
今日から11月、今年も残すところ2か月となりました。去年の今頃は、2020年がやって来るのを心待ちにしていたことを覚えています。中会を例にとれば、宣教70周年記念行事が予定されていましたし、カンボジアではアジア・ユース・ギャザリングが計画されていました。巷ではオリンピックもあり、海外から大勢の旅行者で賑わうだろうと考えていました。ところが、コロナが襲ってきました。
私たちの教会も「神の愛を実感する交わりづくり」という主題を掲げましたが、交わりどころではない。礼拝ですら限定的、未だに動画礼拝が中心です。今までの当たり前が取り戻せない状況です。心のどこかにいつもストレスを感じながら生活しています。
そうした中、ふと思うことがあります。「そもそも神さまは、どうしてこのコロナ禍において、決定的な御力をお示しにならないのか」「なぜ、沈黙しておられるのか」ということです。そのようにして、今日の箇所に登場する主イエスを見ますと、実に無力なのです。無抵抗に逮捕されてしまう。
先ほど、「主イエスは、私たちに守ってもらわなければならないほど、弱くはない。必要があれば、主はおできになる」とお話しました。だとしたら、何故、その御力を今、お示しにならないのだろうか。正直、このことの答えは私には分かりませんでした。ただ、このことを考える上でヒントがあるように思ったのです。
実は、今年になって教会員の方から頂いた、『われ反抗す、ゆえにわれ在り―カミュ「ペスト」を読む』という、東北大の宮田光雄先生のブックレットが手元にありました。これは9年前の東日本大震災を経験した私たちが、それとどう向き合うか、という問題意識で書かれたものです。
その中で興味深かったのは、そこに引用されている、ナチス・ドイツによって殉教したボンヘッファーの次のような言葉でした。
「われわれは―《たとえ神がいなくとも》―この世の中で生きなければならない。このことを認識することなしに誠実であることはできない。そして、まさにこのことを、われわれは神の御前で認識する!神ご自身が、われわれを強いて、この認識にいたらせたもう。…神は、われわれが神なしで生活と折り合うことのできる者として生きなければならないということを、われわれに知らせたもう。われわれと共にいたもう神とは、われわれをお見捨てになる神なのだ(マルコ15:34〔わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか〕)。神という作業仮説なしに、この世で生きるようにさせたもう神こそ、われわれが絶えずその御前に立っているところの神なのだ。」
神さまのことを考える時、もしかしたら私たちは、そのお方は「私たちが願う恵みやご利益を与えてくださる」という前提をもっていないだろうか。さらにそうでない神ならば、信じるに値しないと考えていないだろうか。ボンヘッファーは、私たちが都合よく利用できてしまうような神に、「神という作業仮説」、「機械仕掛けの神」と名付け、それは真の神ではないと語っています。
むしろ聖書が示す、まことの神は、主イエスをして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばせた神です。人格を持ち、私たちが願いや思いを持つように、神ご自身も聖なる願い、聖なる御心を持って生きて働かれるお方です。
ですから、ボンヘッファーは、そうした神を信じるということについて次のように続けています。「神の前で、神と共に、神なしに生きる。神はご自分をこの世から十字架へ追いやられるにまかせる。神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、またわれわれを助けるのである。」
神の沈黙、神の無力さを感じる時、実は私たちの思いをはるかに超えたご自身の御心がある。時にそれは、私たちの眼に沈黙であり、無力さとしか映らず、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばせるような思いになることだってあるかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、善き御力、善き御心をお持ちの愛なるお方が、イエス・キリストの神であると信じ、そのお方から引き離そうとする誘惑からお守りください、と祈りの手を挙げ続けていきたいと願います。お祈りします。

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