逆転の祝福
2016年8月28日夕礼拝
和田一郎伝道師
創世記12章1~7節
ガラテヤの信徒への手紙3章6~9節
Ⅰ.はじめに
ガラテヤ書が書かれた当時は、キリスト教が生まれて20年という、まだ信仰理解や教理が未熟だった時期です。旧約聖書という壮大な歴史の中に現れた、ナザレのイエスという人を巡って、パウロは、地中海周辺を奔走し、間違った福音理解、まだよちよち歩きのキリスト教の福音理解を正しく伝えるために、手紙を書いて、各国の信徒に手紙を書いていました。
パウロは3章の前の節で、ガラテヤ地方に宣教旅行に行った時、信仰によって聖霊が降った体験を思い出させました。自分と一緒にいた時に、善い行いをしたとか、しなかったとかに関係なく、信仰によって聖霊が降った出来事です。ガラテヤの人達に、その事を思い出して、忘れないように、この手紙の3章の冒頭で、熱心に諭しています。
Ⅱ.義とされたアブラハム
さらにパウロは、こんどは聖書に焦点を当てて、信仰の真理について説いていきます。8節にも「聖書」とありますが、この当時はまだ新約聖書は成立していませんでしたから、ここで言う聖書は「旧約聖書」のことです。パウロは6節からアブラハムを引き合いに出してきて、やや唐突のようにも思えます。しかし、アブラハムに起こった出来事は、どうすれば神様に救われることができるのか? ガラテヤの信徒たちにとって分かりやすい、受け入れやすいとパウロは思ったようです。
6節で「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」それと同じことです。ただ信じたのです。ですから、続く7節で「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」と、ガラテヤの人に問いかけます。このように、旧約聖書は一貫してパウロが語っているように、信仰による義について教えていました。「あなた方もアブラハムの子孫でしょ? そうわきまえなさい」と言うのです。
ところが、ユダヤ人以外の異邦人が、真の神様に救われることはない。そのようにユダヤ主義の人たちは考えていました。その根拠は、モーセの律法をすべての土台としていました。それでイエス・キリストを信じる信仰に加えて、律法の行ないを要求しました。しかし実は、モーセの律法よりも以前に、アブラハムが「義」と認められたという事実が聖書に書かれています。パウロはここから、アブラハムに対して神様が行なわれたことを柱として、福音を説き明かしていきます。
「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。」というところは、創世記15章6節で出てきます。アブラハムは、すでに信仰によって、自分の父の故郷を離れ、カナンの地にまで来ていました。そして、甥のロトも一緒に生活していました。けれども、アブラハムが持っていた家畜と、ロトが持っていた家畜が増えていき、彼らは別々に住むことになりました。ロトはソドムに住みましたが、ソドム周辺の王たちが、ロトと彼の持ち物を奪い去ってしまいました。それをアブラハムが追跡し、ロトを奪い返したのです。そこで、メルキゼデクがアブラハムを祝福しました。
その後の出来事です。神様はアブラハムに、「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と言いました。アブラハムは、その報いは、自分に与えられる子孫であると理解しました。そこで、「私には、まだ子がありません。私の家の相続人は、召使いのエリエゼルになるのでしょうか?」と聞きました。しかし、神様は、「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」と仰せになりました。そして、アブラハムを外に出し、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるか。」とお聞きになりました。もちろん数えることができないほど多いです。そこで神様はこう仰せになりました。「あなたの子孫は、このようになる。」そして、創世記15章6節の言葉があります。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。アブラムは、義と認められたとき、何一つ、自分で善い行ないをしたのではありません。ただ信じただけなのです。そして、その信仰が義と認められているのです。
この15章6節の言葉「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」という箇所は、当時のユダヤ人に広く浸透していた言葉だったようです。ローマ書4章でも扱っていますし。ヤコブの手紙でも2章で扱われています。
Ⅲ.アブラハムの祝福
この信仰によって、アブラハムは祝福を受けました。そして、異邦人であるこの私たちも信仰によってその祝福にあずかります。聖書は、神様が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。パウロが引用している聖書個所は、創世記12章3節です。アブラハムがまだ父の故郷ウルの町にいるときに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と約束されました。そして、この祝福はアブラハムに注がれましたが、それは彼が信仰をもって聞いてからであり、彼の行ないに依るものではないのです。そして、この祝福の約束は、「すべての民族」にまで及んでいます。つまり、ユダヤ人だけではなく異邦人も、アブラハムに約束されたところの霊的祝福にあずかることができる、ということです。その条件は「信仰」であり、「律法の行い」でありません。
ガラテヤ3章1節のところで「愚かなガラテヤ人よ」とパウロに叱責されているガラテヤ人ですが、彼らはキリストへの単純な信仰以上のものを求め始めました。しかし、パウロは、旧約聖書から、信仰だけによって祝福されることを語っています。私たちも同じです。私たちが聖書を読むときに、それを律法の行ないであるかのように受けとめるか、それとも信仰をもって聞くようにして読んでいくのかによって大きな違いが出てきます。ところが私達は、ある聖書個所を取り上げて、いかに善い行ないに励まなければいけないのかを牧師は教えますし、信徒たちもそう考えます。
これは、あくまでも信仰によって救われた私達が、神様の恵みに対して応答する意味での、善い行いです。キリストに似たものに近づくのは大切なことですが、それ以前に、まず神様に認められる、義とされるには、ただ神を信じる信仰のみであるわけです。パウロが聖書を解き明かしているように、聖書は始めから最後まで、信仰による義という真理を貫いているのです。
Ⅳ.十字架の理解
このガラテヤ書が書かれたのは、ペンテコステの出来事の時から、キリスト教が生まれて、20年ほどしか経っていない頃の、まだ未熟だった時期でした。一方で、旧約聖書につづられている出来事は、数千年の歴史があります。その中にはイエス・キリストという名前は出てきません。救い主が来る事は待ち望んでいましたが、それが、十字架に架かって死なれた人だと言う主張は問題外でした。十字架に架かるという事は、旧約聖書・申命記に書かれているように「神に呪われた死」を意味しました(申命記21章23節)。回心前のパウロにとって、十字架は呪いを意味しましたから、十字架に架かられたナザレのイエスは、呪い以外のなにものでもありません。しかし、パウロに大転換が起こりました。それはその呪われて死んでしまったと思っていたキリストが、ダマスコ途上で甦った姿で現れたからです。呪われた者として死んだのであれば、甦るなどあり得ません。甦ったということは、パウロは、何か大きな間違いを犯していたことになります。キリストの十字架は呪いではなくて、祝福を意味してしまいます。イエス様が甦ったという事実に、意味・解釈において逆転してしまいました。
Ⅴ.まとめ
今日お読みしました3章で、パウロはこの十字架の出来事を、神様がアブラハムに約束された祝福と、結びつけて説き明かしています。アブラハムはユダヤ民族の先祖です。天地万物を作られた神様は、多くの国民の中からアブラハムを選ばれました。その選びは神様からの選びであり、行いや律法などではなく、神様からの祝福の約束でした。
パウロが手紙を書いた時期のキリスト教も、まだよちよち歩きで、間違った信仰理解をする人がいましたし、ユダヤ人と異邦人の間には、まだまだ溝がありました。しかし、神様の愛はそれらを一つにする力があります。今日は昼の11時から合同礼拝が行われ、スペイン語礼拝、地の塩コミュニティーブラジル人集会と高座教会が一緒に礼拝しました。文化や国籍は別々でも、福音には私達を一つにする力があります。アブラハムに約束された祝福に、すべての人が預かることができる。この大いなる恵みに感謝したいと思います。お祈りします。