選ばれた人生を生きる
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
創世記13章8~18節
ヨハネによる福音書15章16節
Ⅰ.はじめに
私たちは毎日の生活の中で何かを選びながら生きています。そして選んだ結果、幸せな歩みとなったり、逆に困難に直面することも起こります。またもう一方で、自分で選んだのではない様々な条件や環境の下で生きていかなければならない現実もあります。
Ⅱ.アブラムとロト
ある時、アブラムは神さまから「わたしが示す地に行きなさい」と言われました。アブラムはその導きに従って旅立ち、カナンの地にやってきました。甥のロトも一緒でした。
アブラムも、そしてロトも、2人とも神さまによって「与えられた旅」を歩んできたのです。ところが突如、彼らの前に別れ道が出現します。その結果、ロトはロトなりに行く道を選び、アブラムは神の与えて下さった土地に留まるのです。
Ⅲ.ロト的な生き方
ロトは、神さまが「わたしが示す地」と言って与えて下さった土地ではない方を選び取りました。では、この後、2人はどうなったのでしょうか。
今日与えられた聖書個所、創世記13章の場面で、ロトは神さまが彼らのためにと用意された土地を捨て、自分の判断で別の土地に移って行ったことが記されています。
ロトは、カナンの土地が神さまによって示されていた土地であることを知っていました。ところが、創世記12章を読みますと、彼らは、そのカナンの土地にいたばかりに、ある時、飢饉を経験しました。つまり、神さまが与えられた土地であるにもかかわらず、そこで不都合な目に遭ったのです。
ですから、彼は考えました。飢饉に備えて、もっと水場に近い地域に居を移したほうが安心なのではないか、と。
その結果として彼は、神さまが彼に与えた土地を捨て、別のところに移り住むことになったのです。勿論ロトにはロトなりの理由がありました。しかし神さま抜きで、自分の判断を頼りにして、常に良い方を、良い方をと選びながら生きる生き方が最終的には行き詰り、破綻していくことを、この後、創世記は伝えていきます。
Ⅳ.選ばれた人生を生きる―アブラム的生き方
さて、一方アブラムはどうしたでしょうか? 彼にも紆余曲折がありました。しかし、最終的に神さまが示されたカナンの土地に最後まで留まっていきました。
アブラムが選んだ土地は、見方によればロトが捨てた残り物です。しかし、アブラムは世間の基準を超えて、神さまとの関係の中で捉えていくようにしました。つまり、最善を願う神さまが私や家族のためにと準備してくださった土地こそ、本当の意味で祝福された土地なのだ。アブラムはそのことを前提に歩みを進めて行ったのです。
先日、アップル社を立ち上げたスティーヴ・ジョブズの生涯を扱う番組がありました。その中で、彼は多くの大学生を前に、「ひとの人生を生きる暇なんかない。そんな暇があったら、自分の人生を受け取り直し、自分の人生を生きようではないか」というような意味の言葉を語っていました。若い人はスティーヴ・ジョブズにあこがれるでしょう。でも、彼は世界でたった一人なのです。もし私たちが自分の人生を生きずに、一生懸命、スティーヴ・ジョブズのようになろう、彼の生き方をなぞるように生きよう、としても、神さまは、私がスティーヴ・ジョブズのクローンになることを願ってはおられません。私が私であることを願っておられるのです。
洗礼・入会準備会の中で時々、次のようなお話しをしています。「リンゴとナシ、どちらが凄い?」と質問されたら、訊かれた方は一瞬戸惑うことでしょう。勿論、「リンゴとナシ、どちらが好きですか?」なら、「リンゴが好きです」とか、「私はナシの方がいいな」と言えるかもしれません。でも、「リンゴとナシ、どちらが凄い?」と質問されたら困るわけです。
神さまがリンゴに期待していることは、リンゴがナシのようになることではないのです。ナシに願っていることは、リンゴのようなナシになることではありません。リンゴは見事なリンゴになればいい。ナシもそうです。本当にナシらしい、ナシになればいいわけです。このことは私に対しても全く同じです。
聖書に戻ります。神がアブラムのために、と与えて下さった土地であることを受け止め、アブラムはそこに留まる決意をしました。
自分に選ぶ機会が与えられた時に、神が、私にと与えて下さった人生を、私の方も責任をもって選び取り直して生きるという生き方があるのです。神が与えて下さった道を、私も選び取って生きる生き方がある、聖書が示している生き方とは、そうした生き方です。まさに「与えられた人生を選ぶ」という生き方、自分の人生を引き受ける生き方ですね。
いかがでしょう。私たちの周囲を見渡しますと、激しい競争があります。人よりも抜きん出ることが求められる社会です。謙遜さとか誠実さとかは、問題にされないようなことも起こっているかもしれません。良い方、得な方、利益になる方を常に優先して選び続ける、まさに先ほどご一緒に見たような、「ロト的な選択」が称賛され、そうした選択をする人が得をするかもしれません。でも、もっと本当の、自分自身の人生があるのではないでしょうか。大きな繁栄、経済的な豊かさを追求するあまり、神さまが私のためにと与えて下さっている特別な、私だけの人生を捨てて、「一か八か」の競争の中に身を投じるという「ロト的な生き方」ではない生き方が。
神さまが与えて下さっている、その人なりのユニークな人生を、自分の方から選び取る生き方があるのだと、そのことを創世記は私たちに説いているように思います。
アブラムはロトが捨てた方の土地を受け取りました。何故でしょう? それは、神さまがアブラムに与えて下さった、特別な土地だったからです。神さまは、その直後のアブラムに本当に興味深い言葉をお与えになっています。創世記13章の14節から17節をご覧ください。
「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。『さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。』」
これは、どういうことでしょうか。これはロトに代表される世間の目ではなく、神さまを信頼する目で、もう一度、選び取り直した場所、自分の生き方、自分の人生を見渡しなさい、というご命令です。神さまを信頼する者の足取りで、もう一度、あなた自身の人生を歩き直して御覧なさい、という導きです。
一見して取り残されたように見える人生、何か損をしているように見えてしまう歩みの背後に、実は、神さまの特別な選びの真実、また神さまの愛がある。それを決して見失わないように、という導きの言葉です。
ですから、アブラムはどうしたでしょう。彼はそこに「主のために祭壇を築いた」と書かれています。祭壇とは礼拝する場所です。そうです。礼拝の生活です。
確かにアブラムにとって、表面的な意味での、環境の好転はなかったかもしれません。でも、神さまが、この状況の中でどう働いてくださるのか、神様の前に静まることを通してそのことに気づき、神さまの真実な愛に触れる経験となったことでしょう。
今日、もう1つ、聖書の言葉を読ませていただきました。新約聖書のヨハネによる福音書 15章16節の御言葉です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、……わたしがあなたがたを任命したのである。」
イエスさまは、私たちに人生を与えて下さっています。人生そのものを与えて下さったそのお方と共に生きる人生です。私の方からも人生を受け取り直して生きていく。そうした生き方へと、聖書は私たちを招いているのです。
こういう人生が、どこか他に見られるでしょうか。教会にはこういう人生があると思います。ご一緒に、神さまが与えて下さった人生を、私たちも選んで生きていきたいのです。そのことを通して、神さまの素晴らしさを味わい、証ししていきたいと願います。お祈りします。