高座教会の歩みを祈り求める

2017年11月5日
松本雅弘牧師
ペトロの手紙Ⅰ 4章7節―11節

Ⅰ.ぶどうの木につながる

ある人が、私たちクリスチャンは、信仰のことについて大きな2つの誤解を持つことがあると語っていました。
1つは「洗礼がゴール」という考え方。そしてもう1つは「『信仰生活の基本』を落ち度なく行うこと自体が信仰生活の目的である」という考え方です。
主イエスは、弟子たちにぶどうの木と枝のたとえを話され、主に繋がり続けることの大切さを説いておられます。ぶどうの木に繋がっていない枝は命の源から切り離されているわけですから、当然、実を結ぶことは出来ません。いや、それ以前に枯れてしまうわけです。
洗礼はゴールではなくキリストに繋がる出発点です。ですから、スタートを切ったとしても、ぶどうの木であるイエスさまから離れてしまっては、いのちや力から切り離されているわけですから、聖霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)を結ぶことは困難です。
私たちは、誰一人として聖霊の実の逆を行く、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争いなどの実を結びたいと思わないでしょう。怒りに燃え、敵意を抱き、人を羨み、どう処理して良いか分からないような嫉妬心を抱いて生きるのではなく、そうした思いから解放され、様々な難しい出来事に囲まれていても、希望を失わずに忍耐強く神を見上げ、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣けるような人になりたいと願っているのではないかと思うのです。
そうしたクリスチャン人生に導く信仰の秘訣について、主イエスは「ぶどうの木であるわたしに繋がりなさい。決して離れてはならない。わたしを離れては、あなたがたは何も出来ないから」と説かれたのです。
それでは、どのようにしてキリストに繋がり続けたらよいのでしょうか。一言で言えば、イエスさまとの関係の中に生きる、イエスさまとの関係の中に留まるということです。
高座教会では、このことのために〈「信仰生活の5つの基本」を通して、キリストに繋がり続けましょう。キリストとの関係の中に留まりましょう〉とお勧めしているのです。

Ⅱ.最後に問われる「キリストとの関係」

主イエスは「山上の説教」の終わりの部分で、次のように語られました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。……そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7:21-23)
「天の国に入る者は誰なのか」について語ってこられたイエスさまが、ここで、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と語られました。
「主よ、主よ」とは、祈りを通してイエスさまに呼びかけている言葉です。イエスさまによれば、そのように「『主よ、主よ』と言う者が全員、天の国に入るわけではない」というのです。
では、誰が天の国に入るのでしょうか。イエスさまは、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(21節)と教えているのです。これは私たちにとっては切実な問題です。天の国に入れるかどうかがかかっているわけですから。
このイエスさまの教えを読む時に、私たちは「天の父の御心を行う」という言葉に注目をして、ここで、イエスさまが教えておられることは、「神の御心に従うことへの招き」と読む場合が多いように思います。
しかし、この箇所を理解する上での大切なポイントは、23節にある「あなたたちのことは全然知らない」という主イエスの言葉です。
この言葉は、イエスさまと私たちとの関係を表わします。つまり、「あなたたちのことを全然知らない」とは、「イエスと全く関係がない」ということを語っている言葉です。
そのような時、皆、このように言う、と主はおっしゃいます。「いや主よ、私たちは、あなたのお名前によって預言したではありませんか」。また、ある人は、「御名によって悪霊を追い出したではありませんか」と主張するというのです。
しかし、そうしたキリスト教的な、信仰的な行いの背後にある事柄にイエスさまは注目なさるのです。つまりご自分と私たちの関係です。ぶどうの木であるキリストに繋がっているかいないか、ということです。
周囲の人から見て「何と立派な奉仕、何と力ある業でしょう」と、評価される働きをした人々に対して、場合によっては、主は「あなたたちのことは全然知らない」と言われることがあり得る、というのです。
この点について、『エクササイズ』の著者のスミス先生は次のようなことを語っています。
私たちが、人との関係を深めていくために、プレゼントを贈ったり手紙を書いたり、そうした「何かすること」で相手の好意を得ようとすることがある。確かに、その人に対する愛の表現として「何かをした」ならば、それは大いに意味あることでしょう。
しかし、「関係を深める」という視点で考えた場合、一番大事なことは、その人と一緒に時間を過ごすことです。話に耳を傾け、その人と直接心通わせることで2人の関係はより親密になるのです。
ぶどうの木であるキリストに繋がり続けることは、キリストとの関係が深まり、キリストともっと親密になる。そうした方向で信仰生活を生きていく、ということだ、というのです。そのためには、キリストとの時間を大事にしていくことが何よりも必要なことです。
洗礼を受けて何年も経って、主イエスとの時間を取ることなく過ごし、しかし、一方では教会の中で様々な働きに熟知し、場合によっては聖書の勧めもできる。そのようなこともあるかもしれない。でもその人の霊的実態はどうでしょうか。イエスさまが気にかけておられることは、「何をしたか(doing)」ではなく、「主との関係でどうあるか(being)」なのです。

Ⅲ.タラントンのたとえ

こうしたことを踏まえて、来年のテーマ「クリスチャン・スチュワードシップに生きる~主に結ばれて生きる」について考えてみる時に、神さまから授かっている恵みと賜物を、イエスさまの御心に従って管理し、用いることによって、どれだけイエスさまとの生きた関係を深められるか、ということになるでしょう。
与えられた主題聖句は次のとおりです。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」(Ⅰペトロ4:10)
ペトロは、第1に「あなたがたはもれなく、それぞれに賜物を授かっている」と断言します。「いや、授かっていない」と思う人がいたとするならば、その人は主の御前に静まって、いただいている恵みや賜物を捜して御覧なさいと導くのです。私たちの責任は、神さまが「すでに与えた」と言われる贈り物を、主との関係の中で、まず受け取り直すことです。
「主よ、あなたは与えた、とおっしゃるのですが、与えて下さっている賜物って何ですか?」、「確かに、最近、難しい問題に直面しますが、これがあなたからの恵みなのでしょうか? 主よ、教えてください。私の生活の中にすでに働いておられる、主の御手の業に目を留めることができるように、主よ、どうぞ導いてください」と、祈るところから始まるのかもしれません。
第2にペトロは、「神さまのさまざまな恵みの善い管理者となりなさい」と勧めています。
私たちは、いただいた賜物の違いの方に心の目が向いて、周囲の人々を見回し、自分よりも才能に恵まれた人を羨ましく思ってしまうことがあるかもしれません。職場や学校、場合によっては教会の中にもいるかもしれません。
しかし、クリスチャン・スチュワードシップに生きることで、主の御心が前進し、イエスさまとの関係が深められていくことが、私たちのゴールですから、人の賜物を見て羨む心が、私のなかに起こったならば、そのことを祈りの課題にしながら、さらにイエスさまに近づき、語り合う時間を持って行くのです。
それぞれにふさわしく、また1人ひとりの「伸びしろ」を十分にご存じの神さまが、私の力に応じた賜物を預けてくださっているのです。神さまによって多くを任されたということは、それだけ責任も重大です。祈りによってイエスさまとの時間を豊かにいただき、導きを求めて行かなければなりません。
さらに、ペトロは第3のこととして「賜物を生かして互いに仕え合う」生き方を勧めます。

Ⅳ.クリスチャン・スチュワードシップに生きる

ことで主との関係を深める
神さまは、すでに賜物を授けてくださっています。そのことに私たちは気づかずに過ごしているかもしれません。まずは、「主よ、あなたが授けてくださっている賜物、恵みに気づかせてください」と、祈り求めましょう。
そして、そのことに気づかせていただいたならば、「主よ、このような恵みや賜物をどのように用いて、あなたと周りの人にお仕えしていったらよいでしょう。主よ、御心をお示しください」と、主に聴く静かな時をもちましょう。
このようにしてぶどうの木であるキリストに繋がり、主との関係を日々、より深く親しいものとしていけたらと願います。お祈りいたします。

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