不幸の手紙と“I love you.”
篠﨑千穂子教職志願者 奨励要約
ガラテヤの信徒への手紙1章1-5節
2023年2月19日
Ⅰ. 聖書は神様からの「“I love you.”選手権」
以前友人達と「“I love you.”を『愛』という言葉を使わずに表現するとどういう言葉になるか?」という「“I love you.”選手権」というものをしたことがあります。皆さんが“I love you.”を誰かに伝えるとしたら、どんな方法で伝えるでしょうか。神様は、その方法を聖書を通してなされました。言ってみれば、「神様の“I love you.”選手権」であると言えるかもしれません。
Ⅱ. 「不幸の手紙」にしか見えないガラテヤ信徒への手紙、その理由は?
ただ本日お読みしたガラテヤの信徒への手紙は、ラブレターにしては少しおかしいのです。この時代の手紙には、普通「宛先への感謝」を入れるのが通常なのですが、ガラテヤの信徒への手紙には、「ガラテヤの信徒への感謝」がひとつも書かれていません。
パウロがそんなおかしな手紙を書いた理由、それは彼が「ガラテヤの信徒達に怒っていたから」です。しかもパウロはガラテヤにあるいくつかの教会で、この手紙を回し読みをしてほしいと伝えています。ここまでくると、この手紙は「怒りの手紙」を通り越して、「不幸の手紙」と言っても過言ではありません。なぜパウロは、こんな悪意に満ちたかのように見える「不幸の手紙」をガラテヤの信徒達へ書き送ったのでしょうか。
ガラテヤ教会はパウロが異邦人伝道を始めたごく初めの頃に、パウロによって建てられた教会のひとつであるという説があります。少し想像をしてみましょう。血気盛んな伝道者パウロが意気揚々と異邦人世界に飛び出して行って、苦労の末に初めて建てた異邦人の教会にどれだけ思い入れを持っていたのか。けれども、異邦人教会であるガラテヤ教会に、ユダヤ人キリスト者達が間違ったことを教え始めたのです。「異邦人はまずユダヤ教の割礼を受けて、一度ユダヤ教徒になってからでなければキリスト者になれない。」と主張する「割礼派」と呼ばれる人達が教えを広め始めたのです。そしてガラテヤの人達は地域性の問題で割礼に対して違和感をさほど覚えなかったようです。そのために、ガラテヤ教会では、「人が救われるためには、まずユダヤ教徒として割礼を受けなければいけない。モーセの律法に従わなければいけない。」という考え方が広まっていってしまいました。そして同時に、割礼派の考え方とは反対の福音を説いたパウロのことを、偽使徒だと主張する人達すら出てきたようです。パウロは激しく怒ります。
Ⅲ.怒りとは何?パウロの怒りの正体は?
「怒り」について辞書は、「自分や家族の生命が危険に晒されたり、大切にしている価値観が傷つけられたり、願った通りに物事が進まないときに沸き起こるもの。」と説明します。パウロの怒りも同様でした。「キリストのみによる救い」という教えが覆され、ユダヤ教徒にならなければ救われないという考え方は、キリスト者の生命とも言える福音の根幹を危険に晒すことでした。また割礼派の主張は、「神の前にユダヤ人も異邦人も変わらず隣人で、我々は一つである。」というキリストによる新しい約束を否定することになり、パウロは大切にしている価値観を傷つけられたのです。願った通りにガラテヤ教会での伝道が進まず後戻りさせられていることに、パウロが怒りを募らせても不思議ではありません。
Ⅳ. 「不幸の手紙」に信仰のエッセンスを詰め込んだパウロの意図は?パウロの言う信仰のエッセンスとは何?
それにしても、このガラテヤの信徒への手紙は、「不幸の手紙」として考えたとしても、それでもまだおかしなところが残ります。1節から5節の挨拶部分には、パウロは父なる神がどれだけ人々を愛したか、イエス・キリストが何のために死なれたか、それは私達にどういう効果を及ぼしたのかということを、まるでキリスト教の神学書のように書き表しています。怒りに満ちた「不幸の手紙」に、なぜ彼は信仰のエッセンスをこんなにも詰め込んだのでしょうか。
かつてパウロはユダヤ教ファリサイ派のエースとしてキリスト者を迫害する者でした。けれども、不思議な体験を経て回心した彼は、それまでの信仰の在り方を大きく転換させられることとなります。律法遵守主義を捨て、「律法ではなくキリストを通してでなければ救われない。」と考えを変えました。ユダヤ選民主義を捨て、「イスラエルを通して異邦人が救われることを主は望んでおられる。」と強調するようになりました。「罪とは律法違反ではなく、神からの離反を指す。死とは肉体が朽ちていくことではなく、神との関係性が断たれ続ける絶望的な状態をいうのだ。」と教えました。天国に入ることだけがキリストが教える救いではないことをも示し、「神との関係を回復することにこそ命がある。」ということを説きました。そしてまた、「復活した主イエスを通して見させられた、父なる神の契約への真実さのゆえに、私達もまたエデンの昔の、神との素晴らしく良かった関係に戻ることができるのだ」ということを語りました。それまで積み上げてきた自らの信仰の在り方を、キリストと出会い「新しい契約」を示されたことで、自らの痛みと共に大胆に組み替えたのがパウロという人です。だから、「新しい契約」を、従来のユダヤ教の律法に後戻りさせるような割礼派の主張を許すわけにはいかなかったのです。
一方で、1章4節~5節で、パウロはこんなことを語ります。「キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救いⅤ. 様々な形の「“I love you.”選手権」、その中身とは?出そうとして、私達の罪のためにご自身を献げてくださったのです。この神に、世々限りなく栄光がありますように。」怒りつつも、間違った教えに従っているガラテヤの人々とかつての自分を「私達」と同じ立場に置くことで自分の迫害者としての真っ黒な過去が再び露わにされることを承知の上で、ガラテヤの人々をなお愛しておられる神に栄光があることを祈るパウロがいました。それがパウロの、ガラテヤの信徒達への“I love you.”だったのではないか。そんな隣人への不器用な“I love you.”を人々に示すため、神様はこの手紙を聖書に入れたのではないか…私にはそのように思えるのです。
Ⅴ. 様々な形の「“I love you.”選手権」、その中身とは?
“I love you.”には様々な表現があります。
もっと長く一緒にいたい。できるならずっと一緒にいたい。それは、神様が私達に望んでくださる“I love you.”でもあります。永遠に一緒にいたいから、旧約の昔に交わされた、神様からの一方的な祝福の契約でさえ守ることが出来なかった私達に、御子キリストを送るという離れ業を使って、新しい恵みの契約を下さった神様がおられます。大切な人には自分のとっておきをプレゼントしたくなります。神様にとって、とっておきのプレゼントは御子キリストです。またその御子がもたらされた神の国は、キリストによって選びの民とされた私達にも既に与えられているものです。私達は、イエス・キリストによってもたらされた神の国を、適切に治めていくために一つとなることが望まれています。
私達の手は、神様からいつも握られています。私達がたとえ手を離そうとしても、神様は決してこの手を離すことはないでしょう。けれども、神様が望んでおられるのは、私達がその手を握り返すことなのです。神様の一方的な恵み“I love you.”に対して、“Me too.”と返した時、私達の神様との関係はより深く、より強いものになっていきます。
「不幸の手紙」にしか見えない“I love you.”を受け取った時、私達はどう答えるでしょうか。神様から差し出された手を離そうとするでしょうか。それとも “Me too.”と神様の手を握り返して、もう片方の手であなたの隣にいる誰かの手を握りしめることを選ぶでしょうか。
お祈りします。
