信仰の分水嶺
和田一郎副牧師 説教要約
2023年2月26日
申命記8章2-3節
ルカによる福音書4章1―13
Ⅰ. 洗礼と試練
イエス様の生涯は33年ほどであったと言われています。その生涯のほとんどを普通のユダヤ人の大工の息子として過ごされました。イエス様が30歳になられた頃、洗礼をお受けになり荒れ野で試練を受けました。この時から3年間イエス様の「公生涯」とよばれる宣教の働きが始まります。そのきっかけが、洗礼と荒れ野での試練を受ける事から始まったのです。イエス様が洗礼を受けた直後に、荒れ野に行かれ試みを受けるという記述はマタイとマルコの福音書にも同じように書かれています。この二つの出来事が終わった時、「イエスが霊の力に満ち」た(14節)とルカ福音書にあるのです。ですから「洗礼」と「試みを受ける」ことによって、それまでの人生とはまったく違う「何か」が備わって、イエス様の働きが始まったことを現わしているのです。
ところで「洗礼」という言葉は日本語で何を意味しているでしょうか。もちろん洗礼はキリスト教の儀式ですが、辞書には「その後の人生を左右するような特異な体験」とありました。たとえば使われ方としては「社会人になって世間の厳しさという洗礼を受ける」といった使われ方をします。もともとキリスト教の儀式である「洗礼」から派生して、新しい環境に身を置くために、必要な経験を初めて受けることを「洗礼を受ける」と表現するようになったようです。イエス様が洗礼を受けた直後に、試練を受けたことには意味があって、必要不可欠な出来事であったのです、最初が肝心だったのです。
Ⅱ.「霊によって」
イエス様は、どうして洗礼を受けた後に、荒れ野に行かれたのでしょうか。
1節「霊によって荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から試みを受けられた」。「霊によって・・導かれ」とありかす。以前の新共同訳では「霊によって引き回され」(新共同訳)とありました。「導かれた」のと「引き回された」のとでは随分印象が違います。他の箇所では「逮捕した人を引き出す」「家畜を引いていく」といった所で使われる言葉ですから、私は新共同訳の「霊によって引き回され」荒れ野に行かれた、という方が真意に近いのではないかと思いました。つまり、イエス様自身の意思ではなく、なかば強制的に、霊によって荒れ野に連れて行かれたのです。霊というのは悪霊ではないですね、父なる神の霊ですから、30年の間、大工の息子として普通の人間の生活をしていたイエス様を、父なる神様は公生涯の働きに引き出されたのです。3年間の公生涯の働きのために、荒れ野での試練が必要不可欠だったのです。
Ⅲ. 三つの試み
2節「四十日間、悪魔から試みを受けられた」。新共同訳では「誘惑を受けられた」でしたが「試み」と訳が変わった箇所です。ギリシャ語の「ペイラモス」という言葉は「試練」とも「誘惑」とも訳せる言葉です。悪魔がしかけるのであれば誘惑となるでしょうが、ここは悪魔がしかけるにしても父なる神様が、あえて悪魔を用いて「試みた」のです。試みを通して父なる神との関係を整えることを目的としたのです。これは私たちが受ける試練も同じです。神様はどうして、辛く心が折れそうになる試練を与えるのだろう?しかし、試練そのものに、何か意味があるのではないですね。試練を通して神様との関係を整えることを神様は望んでいるわけです。
断食もそうです。荒れ野でのイエス様は四十日間「何も食べなかった」、つまり断食をしていたのですが、それも断食という苦痛、そのものに意味があるのではなく、食を絶って神様に向き合うことが目的でした。悪魔の誘惑があっても、これから先の公生涯でどんなことがあっても、神と向き合うためです。
そこで3つの試みが始まりました、1つ目の試みは「おまえは神の子だろう。腹がへったらそこの石をパンに変えて食べればどうだ」という誘惑でした。それは 差し迫った問題を神様ではなく自分の力によって解決してみたらどうだという誘惑でした。しかし、イエス様は旧約聖書の申命記にある「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)という言葉を用いたのです。自分の力だけではなく、父なる神様の力を信頼するのだと答えたのです。
2つ目の試みで、悪魔は世界のすべての国々を見せた後、「全部あなたのものになる」と誘惑して、イエス様と父なる神様の関係を壊そうと企みました。しかし、イエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(申命記6:13)と、申命記の言葉を用いて、父なる神だけを礼拝することを選択します。
3つ目の試みでは、「神殿の端から飛び降りて、御使いに守られるところを見せてみろ」という誘惑でした。人々が集まる神殿で、そのようなことをすれば、まさしく人々の称賛を得ることができるでしょう。人から認められたい、称賛を受けたいという人間の欲への誘惑です。しかし、人からの称賛ではなく、神様から認められ喜んでいただくのだ。イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」と、徹底して神様の御心に従うことを選び取ったのです。
Ⅳ. 受け身に徹する
荒れ野で悪魔と対峙したイエス様の答えは、すべて旧約聖書に書かれていた、神様の御言葉を引用しました。自分の考えや自分の思い、自分の言葉をぶつけたのではなく、徹頭徹尾、父なる神様の言葉を使った。この出来事で、イエス様の主体的な言動は見られないのです。まったくもって受身の姿勢を貫きとおしました。自分の意思や力で道を切り開いて、荒れ野に行ったり、断食をしたり、悪魔と対決していないのです。自己中心的な生き方から、常に神の御心に身を置く者として、徹底して神様の力を信頼して委ねているのです。
Ⅴ. 信仰の分水嶺
親子三人で尾瀬に行ったことがあります。福島県会津側から入っていくルートで長蔵小屋という古くからある小屋に泊まり、目の前には尾瀬沼が広がっていました。標高1,660メートルにある沼です。息子がそれを見て「海だ」と言ったので「これは海じゃなくて沼だよ。この水は川に流れて太平洋の海まで行くんだよ」。と、教えてあげました。しかし、私は間違ったことを教えてしまったのです。尾瀬の水は利根川を通って太平洋に流れると勘違いしていましたが、日本海に流れることを山小屋の人に教わりました。実は、その小屋の裏の峠を越えるとそこからは太平洋に流れる水域になっていたのです。つまり尾瀬はちょうど日本の中央分水嶺の境にあったのです。尾瀬の稜線にふりそそいだ雨は、の僅かな差でまったく違うゴールに向かって行くことになる。行く先を決めるのは最初が肝心です。イエス様は、荒れ野で試練をお受けになりました。それは3年におよぶ公生涯の行き先を決める、信仰の分水嶺だったのです。イエス様は父なる神のご計画を実現するためにこの世に遣わされましたが、人としての30年を経て、信仰の分水嶺である荒れ野で、「自分中心で生きていいのだよ」という誘惑を退けて、3年間の公生涯を生き抜かれたのです。それでは、私たちの信仰はどうでしょう。一度信仰を持ったからといっても、自分勝手な性質が残っています。分水嶺で、間違った方へ行ってしまったら取返しがつかないのでしょうか。川の流れでしたらそうですが、信仰は違います。そのためにイエス様が来られたのですから、神様は私たちを、日々信仰の分水嶺に置いてくださいます。一日の最初が分水嶺です。私たちの立つべき位置を、日々見極めていきましょう。お祈りをいたします。
