水を飲ませてください

松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書53章1-5節 
ヨハネによる福音書4章1-15節
2023年3月5日

Ⅰ. 「イエスさまもトイレに行かれたのですか?」

先日、礼拝のあと、ある方が私の所に来られ、真剣な面持ちで「イエスさまもトイレに行かれたのですか?」と尋ねてくださいました。
「そうです。イエスさまもトイレに行かれたと思います。おしっこもされたでしょうし、うんちもされたでしょう。聖書には出ていませんが…。」とお答えしたら、少し安心して帰って行かれたことです。
 6節に「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに坐っておられた」と書かれています。ともすると、神の子であられたイエスさまですから、超人的な存在で、疲れなど寄せ付けない、疲れと無縁のお方だと考えてしまう誘惑がありますが、言が肉となって私たちの間に宿られた、という受肉の真理とは、そのまったく逆のことを私たちに伝えているのではないでしょうか。

Ⅱ. サマリアの女性との出会い

正午ごろのことでした。弟子たちは町へ食料調達に出かけていて、主イエスだけが、「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに坐っておられた」のです。そのタイミングで、女性が水汲みにやって来たのです。そこで主イエスは彼女に、「水を飲ませてください」と願います。この言葉に彼女は大変驚きました。そして、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と逆に聞き返します。何故なら「ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったから」です。
ですから彼女の方から主イエスに、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と聞き返しています。実は、ユダヤ人がサマリア人の彼女に話しかけてきたこと自体が驚きなのですが、男性であった主イエスが女性である彼女に公けの場で話しかけることも当時のタブーを犯す行為だったのです。
そしてもう一つ、彼女の言葉を丁寧に読むと、「サマリアの女の、この私に」という自分をどのような者として受けとめていたか、少し難しい言葉を使えば「私」というアイデンティティの問題を彼女自身が抱えていたことが分かるように思います。
出来事が起こったのは「正午ごろ」でした。普通は朝の涼しい内に済ませる仕事を一番暑くて誰も来ないような時間帯に水汲みという重労働をやりに来ているのにはそれなりの理由がありました。結論から言えば、彼女は人を避ける意味で、正午の時間を選んで水汲みに来たようなのです。その理由は、16節から後のところに出て来ますが、ここで彼女が抱え持つ事情が明かされていきます。
彼女にはかつて五人の夫がいました。そして今、一緒に暮らしている男性は本当の夫ではなかった。同棲していたのです。たぶんそうしたことで周囲から非難されていたのかもしれない。確かに彼女にはそうせざるを得なかった彼女なりの言い分、また事情があったでしょうが、周囲に分かってくれる人はいなかったのだと思います。
当時は、離婚は夫から一方的に言い渡されるものでした。ある人を好きになって一緒になり、自分の心を分かってくれる人と思って生活を始めた。ところが、いつの間にか嫌われ捨てられてしまった。しばらくすると新しい男性が現れ〈今度こそ〉と思って一緒になりましたが、前と同じ結果だった。そうしたことを五回も経験したのが彼女です。
そして現在、六人目の男性と付き合っています。〈もしかしたら、また同じことが起こるかもしれない〉。そんな不安を抱えながらの生活はとっても不自由だし、窮屈だったに違いありません。彼女の心は満たされません。満たされないからより親密な交わりを求めてしまう。でも駄目です。こうしたことの繰り返しのなか生きていたのだと思います。ですから、18節に「五人の夫」という言葉を思い巡らす時、私はこの言葉に、彼女の心の渇き、それも深い渇きを感じてしまうのです。
そうした深い事情を知ってくださった主イエスが、彼女の問いかけに対して、しっかりと人間として向き合って、13節に「イエスは答えて言われた」とありますように、彼女にお答えになったのです。誰からも相手にされない。そして自らも「こんな自分だから」と諦めながら生きていた彼女の質問に答えられたのです。
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。』」

Ⅲ. 私たちの「渇き」を渇ききってくださった十字架上での主イエス・キリスト

ところで、以前、女性会で、「十字架上の七つの言葉」を取り上げて修養会を持ったことがありました。実は、その七つの一つに、「渇く」という言葉を記録しているのが、他でもないヨハネ福音書のみなのです。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酢を満たした器が置いてあった人々は、この酢をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した。イエスは、この酢を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れ息を引き取られた。」(ヨハネ19:28―30)
福音書記者ヨハネは、サマリアの女性が経験していた心の渇きと、十字架の上で「渇く」と叫ばれるほどにご自身が渇き切ってくださった主イエスの十字架に御業とを、明らかに結び付けて書いている。感動をもってそのことを私たちに伝えているのではないでしょうか。
十字架に架けられた主イエスの御姿を思い起こしますと、あの時の主イエスの姿とは、人間として最も惨めな姿です。スペイン、バルセロナに建設中のサグラダ・ファミリアのキリストの磔刑像は、腰を巻く布も取られ真っ裸をさらすキリスト像が掲げられているそうです。でも、実際もそうだったのではないでしょうか。
福音書を読むと、様々な人々が十字架の場面に登場します。いま私は、主イエスが惨めな姿をさらしたと言いましたが、福音書に登場する人々の言動を思い巡らす時、惨めな姿をさらしておられたのは主イエスというよりも、むしろ人間たちの方だったのではないか。ある人は、無抵抗な主に向かって罵り、暴力を振るうことで、自ら隠し持っていたドロドロした感情や怒りを爆発させています。十字架の場面に登場する兵士たちも宗教指導者たちも、死刑囚もみんな自分の人生に納得しておらず、むしろ怒っていました。そして心の奥深くには癒されない「心の渇き」があったのだと思います。
“Hurt people hurt people (傷ついてる、人は傷つける)”という歌があります。聴くと切なくなるような歌ですが、私たちの現実だと思いました。〈職場でいい仕事をすれば、この不安は解決されるはず。みんなに認められるようになれば、この寂しさは癒されるはず…〉、そう思いながら一生懸命、頑張り、時には中毒のように打ち込んで来た。でも誰も受けとめてはくれない。分かってくれない。喜んでもくれない。何の解決にもなっていないのです。私のこの心の中の孤独、寂しさ、虚しさ、そうです、「心の渇き」は癒されないのです。
癒されないがために、怒りは色々な人やところに向かって見当違いの戦いをする原因となってしまうのです。家族のこと一つ取ってもそうでしょう。一番大切にすべき人を、「健やかな時も病むときも、愛します」と誓って一緒になったはずの身近な隣人を大切にできていない。私たちは「的を外し」て生きているのです。
主イエスは十字架の上で「渇く」と叫んで息を引き取られた。「こうして、聖書の言葉は実現した」とヨハネ福音書は伝えています。すなわち「渇く」という主イエスの叫びは、心渇くサマリアの女性、いや私たち一人残らず、全ての人の渇きを一身に受け、私たちに代わって渇ききってくださった瞬間の叫び。だから、「こうして、聖書の言葉は実現した」とヨハネ福音書は伝えているのです。
Ⅳ. 主がお与えになる水を求めて

主イエスは、私たちを愛するが故に、トイレに行かなければ生きていけない人間になってくださいました。真昼の炎天下、井戸のそばに座らなければならない程の疲れを覚えられた。主が人となって、私たちの間に住まわれたというのはそういうことでしょう。
「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:15-16)。
主イエスは、私たちのことを分かってくださいます。それだけではなく、生きる上で経験する様々な渇きを経験し、最後、もう渇かなくていいよ、私があなたがたの経験する渇きを渇ききってやるのだから、と言って十字架に架かられたのが主イエスです。そのお方が、私たちを招いておられる。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」
自らも人となられたが故に、私たちの弱さを知ってくださるお方が、私のもとに来て飲みなさいと招いておられます。私たちはこのお方から離れないで歩んでまいりましょう。
お祈りします