恵みと慈しみが私を追う
饒平名丈兄 奨励要約
詩編23編1-6節
2023年3月12日
Ⅰ. 生きる力を与えてくれる不思議な聖書箇所
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。」この御言葉で始まる詩編23編は、多くの芸術作品、例えば『エレファント・マン』などの映画や小説、音楽などで使われ、親しまれてきました。高校2年生のときに受洗した私も、この詩編23編に魅了された一人でした。クリスチャンになって、良い業を行って、天国に入ることが出来たら、輝ける緑の牧場が広がっているに違いないと、私は勝手に思いこんでおりました。しかしながら、この詩編23編の御言葉の持つ本当の力を知るのは、受洗してから後のことです。受験に失敗した時、父親や友人、親しい人たちの死に出会った時、良き業なんて何一つ出来ない自分に向き合った時に、6節からなるこの詩は、再び立ち上がる元気をくれました。「なぜ私だけこんな目に遭うのか」と怒りと涙が溢れる時には、「恐れるな。神が共におられる」と23編は私に語ってくれました。このように詩編23編は苦しい時、悲しい時、辛い時、詩の中では「死の影の谷を歩む」と表現される世界にいるような時に、生きる力を与えてくれる不思議な聖書箇所です。そのような不思議な力を持つ、この詩編23編を皆様とともに読み進めていきたいと思います。
Ⅱ. 主は私の羊飼い
この詩編は「主は私の羊飼い。私は乏しいところがない。」ということばから始まりますが、「主は私の羊飼い」とはどういうことでしょうか。羊を飼うという文化や生活になじみがあまりないと、初めて読まれる方には何のことか、よくわからないかも知れません。「主、すなわち神様は、私の羊飼いのようなもので、私は羊のようなものです。」と直接「~のようだ」とか「~の如く」とか言い換えれば分かり易くなるでしょうか。「ようだ」とか「の如く」を使わない隠喩法を用いて神を羊飼いと喩えることは、実はこの23編だけではなく、ユダヤの詩では頻繁に使われていたようです。
何年か前に、イスラエルの羊飼いにインタビューをしているテレビ番組を見たことがあります。そのなかで、「何十頭もいる羊をどう管理しているのか。」という質問に、その羊飼いは事も無げに「名前つけて覚えているよ。」と答えていました。この羊飼いのように、主なる神様は、羊のような人間の、一人一人を大事に見ておられるのだと詩編は表現しています。さらにこの詩人は「私は乏しいところがない」と言います。これは「私には欠点がない」とか「私は欠乏しない、願えば神様が全て与えてくれる」という意味ではありません。いくら頑張っても、努力しても、報われない時を誰もが経験するでしょう。自信をなくし、砕かれて孤独になり、自らの弱さとはかなさに気づく時、それは自らが羊であることに気づく時だと思うのです。緑と水のある場所へ案内してくれる羊飼いがいなければ、生きていけない羊のように、共におられて私を導いてくださる神様なしでは、生きてはいけない弱くて惨めで情けない自分がそこにいるのです。神様が共におられる、私はそれを信じる、信頼する。だから、私はこのお方の指し示す方向に安心して共に歩んでいけるのです。
Ⅲ. たとえ死の陰の谷を歩むとも 私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ
イスラエルの気候から考えた時、乾燥した茶色い地が続く土地において緑の草が生えているというのは、まさに命がいきいきと活動できる場所であり、貴重な水のあるところへと導く羊飼いなしには生き抜けないことを示しています。4節では、「たとえ死の陰の谷を歩むとも 私は災いを恐れない。」と風景が変わってきます。私たちの人生においても、順風満帆な時ばかりではなく、予想できなかった出来事が突然おきることがあります。私が死ぬほどに辛いとき、苦しいとき、悲しいときに、「主がともにおられる」このことを告白し、神様を信頼するときに、私たちは力を受けるのです。「あなたの鞭と杖が私を慰める。」イスラエルの砂漠にある峡谷や深い谷には、野獣が隠れ、羊には非常に危険な場所です。好き勝手に動く羊を羊飼いは鞭や杖で従わせ、野獣を鞭と杖で追い払います。それと同じように、主イエスは、御言葉という鞭と杖で私たちを教え、戒め、正しく訓練して下さるのです。しかし、鞭と杖が私を「慰める」とはどういう意味でしょう。自らが弱き羊であることを認め、主の前に静まり、神が羊を導く鞭と杖は御心にかなった訓練の一環であることに気づく時、それは私にとって「慰め」に変えられることではないでしょうか。私たちの全てをご存じでおられる主なる神様は、ただやみくもに私たちに苦難や災いを与える神様ではありません。主がその試練を通して、私たちを訓練し、主なる神への信頼を、確かなものとすることができるようにして下さるのです。それゆえ、神によって私たちは慰められ、人間の思いを超えた大いなる恵みの豊かさと憐みを知るようになるのではないでしょうか。
私たちが出会う人は「いい人」ばかりではありません。誰もが少なからず、「私を苦しめる」人に出会った、あるいは今現在、まさに出会っているかもしれません。私も経験があるのですが、努力してもなかなか人間関係がうまくいかない時、あるいは理不尽な攻撃をされるとき、ある人とは目を合わせるのさえ避けたくなりました。また、その人と話すたびに、心拍数が高くなり、トイレに逃げ込みたくなる気持ちになることがありました。現実の敵対する人だけでなく、さまざまな問題に囲まれ、責められているような時もあるかもしれません。しかし、神様は時に敵に囲まれているような状況にあっても、神を信頼する者のために宴会を催してくださるのです。決して苦難の中に、孤独に私を、私たちを放っておくことはなさらないのです。
Ⅳ. 命あるかぎり 恵みと慈しみが私を追う
命ある限り、すなわち私が生きている間は、主の恵みと慈しみが、私を追いかけて来ると書かれています。私が恵みと慈しみを追いかけているのではないのです。神様の側から、愛の眼差しと祝福をもって追いかけてきて下さるのです。この祝福のなかに生きる人生の幸いをダビデは確信しています。そして、「私は主の家に住もう」と歌うのです。「日の続くかぎり」の句には、「永遠に」という意味を持つヘブル語(ヤーミーム)が使われています。すなわち、限りのあるこの人生が終わることがあっても、その先にある神様の国に、永遠に住んで、神様と共に喜びに満ち溢れて生きることができるのだと歌われています。
この詩編から力を貰える理由のひとつとして考えられるのは、この詩が現在形と未来形で書かれていることでしょう。過去の歴史のなかで起きたことを描写しているのではなく、現在と未来のことを述べているのです。さらに、私たちは自分の力で頑張って「恵みと慈しみ」を手に入れるものではありません。神様の方から「恵みと慈しみ」を私たちに与えてくださる、そして「主の家に住もう」と永遠の住処を提示して、そこでも神様が共にいてくださる世界を描き出してくれるのです。
私にとってこの詩編はクリスチャンとしての生き方を凝縮したような詩に思えてなりません。最初の節で「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。」、だから私は主の前にひざまずいて祈るのだ、と首(こうべ)を垂れるのです。そして「死の陰の谷を歩む」ように、さまざまな苦難や災いに出会うのです。それらが主からの試練であることを学びつつ、それらをも通して神からの慰めを受け、多くの敵の前であっても、主が私のために祝宴を設けてくれることを確信します。そして、「主が共におられる」ことを、「恵みと慈しみが私を追う」ことを信じつつ生きる信仰です。この信仰は私の地上での命が終わってからも主のおられる天の国で永遠に主とともに住まう、との希望に進んでいくのです。
羊飼いである主イエスは、羊である私のために、私たちのために、その命を十字架の上にて捨てられました。そしてさらに、「囲いに入っていないほかの羊」までをも導こうとされておられます。主イエスの十字架と復活、その恵みと慰めと栄光を知る私、私たちは、その主なるイエスについていきたいと願う者です。生涯においても、その先の未来においても。
目を世界に向けるならば長く続くコロナや戦争、災害などの厳しい現実があります。これらをこの世界が私たちに見せている今だからこそ、私たちは「主が私たちと共におられる」こと、そして「恵みと慈しみが、主に信頼する者を追う」ことを信じ、未来への「希望」、すなわち日の続く限り「主の家に住む」希望を持って生きていくように励まされていることを覚えたいと思います。
お祈りします。