子どもを祝福するイエス

<秋の歓迎礼拝> 和田一郎牧師 説教要約
2024年10月6日
マルコによる福音書10章13-16節

Ⅰ. アンが見つめていた絵

今日は歓迎礼拝です。
『赤毛のアン』という小説があります。主人公アン・シャーリーは孤児院で暮らしていました。ある日プリンスエドワード島に住む、年老いた兄妹マシュウとマリラの家に行くことになりました。兄と妹は生涯独身で子どもを育てたことはありません。老いて農場で働くのがきつくなっていたので、働き手として男の子がほしいと孤児院に頼んだのですが手違いで来たのが女の子のアンでした。二人はアンを孤児院に返さなければならないと考えていましたが、天真爛漫な11歳のアンと話をしていて気持ちが変わり、アンはこの家で暮らすことになりました。
マシュウとマリラ兄妹は、長老派の教会に通うクリスチャンでしたから、アンがお祈りをしたことがないのに驚いて、「主の祈り」を暗記するように伝えました。しばらくしてアンは壁にかかっている絵を見つめていました。その絵は「子どもたちを祝福するイエス」という絵でした。アンはその絵を見ながら想像していたのです。
「たった一人すみっこにいる女の子が私だって想像してた・・・わたしがここに置いてくださいって頼んだ時みたいに、あの子の心臓はどきどき音をたてて、手は冷たくなっていたに違いない。」
アンが見ていた絵は、クラーナハというドイツのルネサンス画家の絵です。その絵の女の子を見て、身内のいない寂しそうな子に見えた。アンはこの年老いた兄妹の家に受入れられました。
そして変わっていくのです。この家に来てから「主の祈り」を覚え、教会学校に行くようになって、新しい家族と生活していくうちに健やかに変わっていくのです。温かい家族の温もりという環境に置かれて、聡明で落ち着いた女性になっていくのです。
キリスト教会では、信徒同士の繋がりを「神の家族」と言います。教会では血の繋がり以上に信仰による繋がりを大切にしているのです。その繋がりは神を愛し、隣人を愛する生き方へと変えられていきます。人は出会いや繋がりによって変わっていくのです。アンは年老いた兄妹と出会い、イエス様と出会い、その繋がりによって変わっていきました。
アンが見つめていた「子どもたちを祝福するイエス」のモチーフになった聖書の話がマルコによる福音書10章13からの話です。

Ⅱ. 親たちの目

イエス様に触れていただくために、人々が子どもたちを連れてやって来ました。偉い先生に触れてもらえたらその子は幸せになれる。そう思って連れて来ました。これを見て弟子達は親たちを叱りました。「忙しいイエス様を煩わせるな」とでも言ったのでしょうか。女性や子どもにかまっていたら、イエス様の身がもたないと心配したのかもしれません。ところがイエス様はそんな弟子達を見て憤ります。そして(14節)「…子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない」と、一人ひとり抱き上げ、手を置いて祝福されました。
子どもを連れてきた親たちは、偉い先生に触れてもらえたら、その子は幸せになれる。つまり、ご利益があるだろうと思ったのでしょう。しかし、キリスト教における神様からの恵みというのはご利益とは違います。
教会では、ご利益を得るために礼拝したり、善い行いに務めるのではないのです。イエス・キリストを救い主と信じる信仰をもつことで、ご利益はもうすでに十分頂いています。信仰をもつことで、神様と信徒同士の「神の家族」という良い関係に加えられたという感謝の応答として善い行いに務めるのです。ですから礼拝したり、善い行いをすることは、ただやるべきことをしたまでです。イエス様は言いました、「…自分に命じられたことを、みな果たしたら『・・・すべきことをしたにすぎません』と言いなさい。」(ルカ17章10節)。そればかりか「よくやった、よい僕だ」と褒められたとしても、「いつそれをしましたか?」と尋ね返すほどに、報いを求めない生き方がクリスチャンなのです。

Ⅲ. 弟子たちの目

ところで、やって来た女性や子ども達を、弟子たちは叱りました。忙しいイエス様に女性や子どもを相手にしている時間などないと思っていたのです。それと当時は、女性や子どもたちはユダヤ社会の中で大切に扱われていなかった。「神の家族」の一員に入れないと勝手に決めつけられていたのです。自分たちはイエス様の弟子だから、神様の祝福を受けられる、でもあなた達は違う。つまり他人を裁いていたのです。同じ不完全な人間であるはずなのに、私とあなたは違うと裁いてしまう。これは人ごとではなくて、私たちも陥りやすい罪です。今を生きている私たちも、私は正しいが、あなたは間違っているという罪に陥りやすいのです。

Ⅳ. イエス様の目

イエス様はこれを見て「憤った」とあります。人間の傲慢さを見て、イエス様は憤る方です。人が間違いを犯した時に怒りを露わにされます。そして言いました。
「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」これは、神様の恵みは、このようにして与えられるのだということです。
そして、(15節)「よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福されました。
神の国に入り、その恵みに与るには、聖書の勉強をしたからとか、善い行いをしたなどの、条件を満たさなければならないのではありません。子どものように無邪気になれば神の国に入ることができるということでもない。私たちは、この子どもたちと同じように、イエス様が抱き寄せくださったら、逃れずにそれを受け止める、手を置いてくださろうとしたら後ずさりせずに、祝福を受けることしかないのです。イエス様からその一方的な恵みを、ただ受けるだけです。
イエス様は聖書を勉強して、よく理解した人が神の国に入るとは言いませんでした。呼び寄せて、抱き上げてくださったのです。手を置いて祝福してくださった。子どもたちとスキンシップをとって関係をもってくださったのです。神の家族という関係の中に入れてくださったのです。
『赤毛のアン』のアン・シャーリーは孤児院という人との関係性の薄い生活の中で淋しい思いをしていましたが、年老いた兄妹とプリンスエドワード島の、神の家族との繋がりの中で変わっていきました。壁に掛けられた絵を見ていたアンは、その後こんなことを言ったのです。
「でもあの絵をかいた人がイエス様をあんなに悲しそうにかかなければいいのにと思うわ。・・・でもほんとうはあんなに悲しそうなようすはしてないと思うの。」
この絵に描かれたイエス様は、確かに微笑まし表情には見えません。当時、社会の中で大切にされていなかった女性や子どもたちに対する、憐みと慈しみの表れなのです。イエス様は他にも病気の人、貧しい人、罪人と呼ばれ世の中からはみ出していた人の所へ寄り添ってくださったのです、そこにはイエス様の憐みと慈しみが現れています。
しかし、アンが「でも、ほんとうはあんなに悲しそうな様子はしてないと思う」と言ったように、イエス様は子どもや母親が、やって来たことを心から喜んでいたはずです。アンが指摘したようにイエス様は、憐みと慈しみを持ちながらも、心から喜んで嬉しかったはずです。
ですから、今日はじめて教会に来られた方がいましたら、イエス様はその方の苦労や思い煩いを、憐み慈しみの心を持ちながら、来られたことを心から喜んでおられます。イエス様はすべての人が神の国に入り、神の家族となることを歓迎しています。是非、そのことを受け止めてください。
お祈りをいたします。