祈るときには
和田一郎牧師 説教要約
2024年9月29日
ネヘミヤ記9章9-17節
ルカによる福音書11章1-13節
Ⅰ.ルカ福音書の「主の祈り」
「主の祈り」は、『マタイ福音書』から説教することが多いと思いますが『ルカ福音書』では、より短くして強調点を変えて教えています。どちらも、祈る時には天の父に心を向けて祈ることを教えています。
〇「父よ、御名が聖とされますように」
神様には名があります。親しい関係を作るにはまず名前を呼び合います。呼ぶ名がなければ関係は作れません。しかし、神の名をみだりに呼んではいけないので、イエス様は「父よ」と呼ぶように教えて下さいました。イエス様は私たち人間に、神と親しい関係を作って欲しいと願っておられるのです。そして神様を信頼している私たちが、世の中で相応しくない生き方をすれば、神様の名前を汚すことになります。そうならないように、この小さな自分を通して、この世で神の御名が聖とされますようにと祈りたいのです。
〇「御国が来ますように」
「御国」とは「神の国」のことです。天の国や天国も同じ意味です。神様の支配する領域が御国ですが、これはイエス様が地上に来られたことで、神様の支配する領域がこの世にも来たのです。イエス様のメッセージは、一貫して御国とはどのような所か、どうすれば入ることができるのかについて語られました。イエス・キリストを主と信じる者は御国に入ることができる。それは今も続いています。「御国に入る」ことは「救い」を意味します。「神の子とされる」「永遠の命を得る」ことも同じ意味です。私たちはイエス様が地上に来られ、御国が近づいた福音というニュースをできるだけ多くの人々に伝え、いつかイエス様が再臨されて御国が完成するまでに、不完全ではありますが、いま、私たちが生きているこの時代に御国に入ることを願わなければなりません。
〇「私たちに日ごとの糧を毎日お与えください」
この祈りは、自分たちの食事が満たされていても、どこかに飢えている人がいるかぎり、そう祈り続けなければならないということです。「私たち」とは究極のところ全人類のことですから、すべての人の神様の御心を信じて祈るのです。神様はその日の糧に困っている人に「私は払ってやりたいのだ」(マタイ20:14)という御心をもっているのです。私たちの食糧問題に「フードロス」があります。お店で余った食料を大量に捨てている中で、多くの人たちが食に飢えています。ですからこの祈りを続けていかなければなりません。
〇「私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」
「負い目」という言葉は罪を借金になぞられているのです。人は返さなければならないと思って、良いことをしようとしても、また悪いことをしてしまう。いつになっても返せない、神様に対して借金を負っているようなものです。残る道はたった一つ、負い目を返すのではなく、負い目を赦してもらうしかありません。
神様はその赦しの手段としてイエス様に私たちの罪をすべて負わせたのです。キリストを「主」と信じる者はだれでも赦されるのです。
「私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」というのは交換条件ではなくて「私たちが赦されたのだから、私たちも他の人を赦します」という誓いです。
〇「私たちを試みに遭わせないでください」
試験のように試されるって嫌なことですが、それがあるからこそ成長できることもあります。文字通りの試験ではなくても、私たちはある意味で今もテストされています。仕事や家庭でも、よい夫であるか妻であるか、よい隣人であるかなどです。信仰においても試みがあります。「あの人に傷つけられた、赦せない」と私たちは日々信仰の試みを受けています。神様から離れる「誘惑」も同じです。悪いことをしなくても、心が神から離れ、神なしで生きていこうとする試み、誘惑に陥いります。「私たちを神から引き離そうとする試みから守ってください」ということです。
Ⅱ.求められる熱心な祈り
イエス様は、「主の祈り」を教えた後で、以外なたとえを話されます。それは、遠くから旅してきた友人が来てお腹を空かしているのだが、彼に食べさせるパンがない。だから真夜中だけれども、近くの友人の家に行って「パンを貸してください」と戸を叩くのです。
友人は初めは断られるのです。しかし、何とかしたいと、熱心に頼み込むとパンをくれて、なんとか旅人の友人を助けることができた。神様は、自動販売機のように、お金を入れれば物が出てきて、売切れたらどうにもならない機械ではありません。素直に祈り求めて、戸をたたき続けることを止めない熱心さに神様は報い、必要なものを与えてくださると教えて下さいます。
「熱心さ」を勧めながら、そのように主に向って祈るべきことを「求めなさい・・捜しなさい・・叩きなさい・・・」と教えるのです。そして、あなたが悪い父であったとしても、子どもには良いものを与えようとするのだから、なおのこと、天の父が、求める人たちに良いものを与えてくださるのは当然ではないかと、五節からは熱心に祈り求めなさいと教えています。それは神ご自身が熱心な神だからです。
Ⅲ.熱情の神
出エジプト記では「…私は主、あなたの神、妬む神である。」(出 20:5)とご自分のことを伝えています。新共同訳では「わたしは熱情の神」と訳しています。妬む神というのは熱情をもった熱い思いで、ご自分の民を愛する神ということです。言い方を換えれば、神の愛は極めて具体的だということです。抽象的に人を愛することは簡単ですが、目の前にいる具体的な人を愛することは難しいということを私たちは経験しているのではないでしょうか。しかし、私たちに対する神の愛は違います。神様は私たちを具体的に徹底して熱情をもって愛して下さっているのです。だからイエス・キリストをこの世に遣わして下さり、しかも十字架の死にまで至らせて下さったことが具体的な愛の現れです。その神の具体的で熱情を込めた愛に、私たちがきちんと応えることを神は求めているのです。
Ⅳ.『真夜中に戸をたたく』
今日の聖書箇所、真夜中に友人の家の戸を叩くというたとえ話は、M.Lキング牧師が語った説教箇所としても有名です。キング牧師が、黒人に対する公民権活動に関わったのは、教会は真夜中に戸をたたく人に戸を開けなければならない、教会は人間全体に関わらなければならないという使命感があったからです。
「真夜中の訪問に、教会は無反応である。戦争や不正義に無反応である。しかしながら、この人は友人が家の戸を叩き続けている、そのしつこさ、持続性のゆえについに開けたのである。今日も多くの人々が、教会が素っ気なく彼らを失望させても真夜中に教会の戸を叩き続けている。それは彼らがそこに命のパンがあることを知っているからだ。教会が語らなければならない最も感動的な言葉は、真夜中は長く続かないという言葉だ。パンを求めている真夜中の疲れた旅人は、真剣に夜明けを求めている。我々が持っている永遠の希望のメッセージは、夜明けは必ずくるというメッセージである。」
キング牧師は「我々が持っている希望のメッセージは、夜明けは必ずくるというメッセージだ」と言いました。つまり、イエス様が教えてくださった祈りのように、熱心に祈り続ければ必ず夜明けがくる。必ず祈りは聞かれるというのが、今日のイエス様が語られた希望のメッセージです。明けない夜はない、聞かれない祈りはない。私たちの周りには、さまざまな祈らなければならない闇のような夜があります。しかし、祈りなさい、熱心に祈りなさい、真夜中に戸を叩きなさい、明けない夜はない、夜明けは必ず来ると主は言われます。私たちは何故祈るのでしょうか。神様は、私たち人間に神と親しい関係を作って欲しいと願っておられるのです。それも、イエス・キリストの十字架という具体的で熱情に満ちた愛に応えて、熱心に祈る存在でいて欲しいと、神は求めておられるのです。
お祈りをいたします。
