安心しなさい、私だ
和田一郎牧師 説教要約
2024年9月22日
出エジプト記3章13,14節
マタイによる福音書14章22-33節
Ⅰ. 強いて舟に乗り込ませられる
22節「それから」というのは、一つ前の箇所にある「五千人の給食」の奇蹟を指しています。そこで群衆がイエス様こそユダヤの王になるべき方だと語り始めたので、イエス様は弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせて群衆を解散させられたのです。弟子たちがイエス様を真の救い主と信じるまでには十分な経験が必要です。私たちの人生はしばしば舟旅に例えられます。一人で旅をしているのではないということです。一緒に舟に乗り合わせている人々と共に生きています。家族であり、職場であり、地域であり、教会でもあります。それがこの世を生きている私たちの一つの姿です。
どの共同体にも試練はあります。この時船は、逆風のために波に悩まされていました。それも真夜中の出来事です。先行きの見えない不安と恐れが弟子たちにありました。
Ⅱ. わたしだ。恐れることはない
しかし、明けない夜はありません。(25節)「夜が明ける頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた。」ここで注目したいのは、弟子たちがイエス様を見て「恐れた」ということです。彼らは何を恐れたのでしょうか。並行箇所であるヨハネ福音書は(6章19節)「…イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた」と語っていてイエス様だと分かっていて恐れたのです。そしてイエス様は彼らに14章27節)「…わたしだ。恐れることはない。」とお語りになった。このお言葉こそ、彼らの恐れの背後にあるものを表しているのです。
「わたしだ」は原文ギリシア語では「エゴー エイミ」です。英語では「アイ アム」です。「私はある」と訳すことができます。
今日、朗読しました旧約聖書の出エジプト記3章は、神がモーセに現れ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放するために、エジプトへ行くように命じられた箇所ですが、エジプトの同胞たちに、神のお名前を尋ねられたら、どう答えたらよいでしょうかというモーセの質問に対して主は言われました。
「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」(出3:14)
「私はいる」ギリシア語で「エゴー エイミ」となるのです。「わたしだ。恐れることはない。」の「わたしだ」と。モーセに向かって語られた、あの力強いご自分を言い現す言葉、まさにそこに生きておられる「神の臨在」、「神の力」を表す言葉です。モーセの目の前と、船に乗った弟子たちの前にある「神の臨在」、「神の力」を示す言葉なのです。弟子たちは湖の上で自分達の弱さを思い知りました。人間のはかなさを身に染みて感じていました。自分たちだけで暗い湖を渡っていかなければならないのではないかと感じていました。強い風や波を、自分たちの力で何とかして乗り切っていかなければならないと思い、そのために必死になり、しかし人間の力の限界をすぐに感じて怖くなり、勇気を失い、落胆や諦めに陥ったのです。だからこそ、あの、いつもいてくださるイエス様が、水の上を歩いて来られる、まさに神の臨在と神の御力、「私はある」という方の大いなるものへの恐れを抱いたのです。そして、弟子たちの舟に近づいて来られたイエス様は、「エゴー エイミ。わたしはある。わたしだ。恐れることはない」と語られたのです。
Ⅲ. イエス様を仰ぐ
ペトロは「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください。」(28節)と言いました。先ほどまで「幽霊だ」と恐れていたのに、あれは何だったのかと思いますが、これもペトロらしいというか人間らしいとも思えるのです。私たちも苦難の時にはうろたえますが、喉元過ぎれば熱さを忘れて大胆になります。ペトロは衝動的にも見えますが、それでもイエス様だと分かれば、「私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください」と、大胆に従おうとします。その率直さ、愚直さをイエス様は受け入れるのです。「来なさい」とイエス様は言われた。ペトロは舟から降りて、水の上を歩いてイエス様のほうに行きました。水の上を歩きました。凄いことです。ところが風を見て怖くなり、沈みかけたのです。(30節)「主よ、助けてください」。沈みかけていたペトロは、イエス様を見上げるようにして言ったのでしょうね。「主よ、助けてください」。
イエス様を見上げて歩くということは信仰を表しています。イエス様を見上げて、助けを求めつつ歩くといいうのは信仰生活そのものです。人というのは自分のことは自分が一番知っていると思いがちですが、そうではない。実は自分で分かっていない自分があるのです。神様と向き合う時、神様の愛を知った時にこそ、人は自らの立ち位置と存在意義を知り得るのです。ペトロはイエス様の力を借りた時、水の上を歩くことさえできたのに、イエス様から気をそらした途端に沈んでしまう、その自分のはかなさを知るのです。
このイエス様が湖の上を歩かれたという奇蹟は、イエス様が神の子であることを教えていますし、信仰生活というものが、どのようなものであるかを、湖の水や風また波という具体的なものを通して、絵を描くかのように教えているのです。
湖の水は、混沌としたこの世界を表しています。さまざまな国や民族、文化と科学が織りなすこの世の中で、私たちは溺れないように歩んで行かなければなりません。変化の激しい今世紀の状況は、まさに波のようです。手を取って支えてくださる手、信頼して見上げることができる存在が必要なのです。風は自分の人生を表しているといえます。順風の時もあれば、吹き飛ばされそうな厳しい風の時もある。クリスチャンは、人生の海の嵐にもまれながらもイエス様を仰ぐことによって、この世の荒波にもまれて沈んだり、溺れたりすることなく、その上を歩くことができるのです。
Ⅳ. イエス様を迎え入れる
32節「そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」とあります。イエス様がペトロを支えながら船に乗り込むと、風は静まったとはいったい何を意味するのでしょうか。
「幽霊だ」と言っていた弟子たちでしたが、イエス様とペトロの様子を目の当たりにして「まことに、あなたは神の子」という思いに変わっていました。船に乗り込もうとするイエス様を、彼らは受け入れました。「安心しなさい。私だ。」とおっしゃるイエス様を、心の中に迎えた。すると風は静まった。心は静まった、静まりというのは心に平和があることです。
イエス様はヨハネ福音書で弟子たちに語られました。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ福音書14:27)
その平和というのは、一般的に使われる平和、いわゆる戦争がない平和ということではなくて、神との間の平和です。神との間の平和とは、神が自分のことを大切に思って下さっていることが本当に分かり、自分自身も神に信頼しているということです。それが平和です。そしてそれは、自分自身の心の土台となります。
「安心しなさい。私だ。」とおっしゃるイエス様を、心の中に迎えた。すると風は静まった。彼らに平和がもたらされたのです。騒がしかったものが、怯えていたものが静まったのです。神による平和がもたらされたのです。
Ⅴ. 主を迎え入れる
今日の聖書の話は、逆風にさらされて、苦しんでいる私たちの共同体、すなわち家族や職場や教会など、同じ船に乗る共同体が、困難の中にあるところにイエス・キリストが、来て下さるのだということを語っています。ペトロが水の上に一歩踏み出して歩みました。人が水の上を歩くなど信じられない力です。しかし、「…人にはできないことも、神にはできる」(ルカ 18:27)。人間の知恵や力だけでは、どうにもならないことが、イエス様に向かって一歩踏み出すことで、難しいと思っていたことが満たされた。支えられたのです。ペトロの手を掴んで支えたように。私たちが沈みかけても、しっかりと腕を掴み支えてくださいます。そして、その救い主を信頼して心に受け入れた時に生れるのが、主にある平和です「風は静まった」、真の平和が心に訪れます。
世の中は、荒れた湖のように混沌としています。自分の力だけでは乗り切れません。
「安心しなさい、私だ」と、私たちを見つめ、支えてくださる方を、仰ぎつつ、この一週間を歩んでいきましょう。お祈りをいたします。
