空しくない人生
<敬老感謝礼拝> 宮井岳彦副牧師 説教要約
ミカ書4章6-8節
ペトロの手紙一1章13-21節
2024年9月15日
Ⅰ. あなたは神の子ども!
神の子どもである皆さん!
今日、この礼拝で私はそのことを皆さんに申し上げたい。皆さんは神の子ども、神に愛されている子どもです。
14節に「従順な子として」と書いてあります。この「子」という言葉は、大人に対する子ども(小人)という意味ではありません。生まれるという言葉が元になってできた「子」という言葉です。あなたは神が生んだ神の子!聖書はそう言います。更に、17節には「(神を)父と呼んでいる」とも書いてあります。皆さんは神を父とお呼びして祈っているでしょう、神の子として祈っているでしょう、と言うのです。
今日は敬老感謝礼拝として、この礼拝を献げています。他のいつにも増して今日こそどうか心に留めてください。あなたは神の子どもです。神を父と呼び、神に愛されている神の子どもです。この事実があなたの価値を定めるのです。
もう15年くらい前の話ですが、ある日曜日のことです。主日の礼拝を献げて、私はいつものように玄関で礼拝者のお見送りをしていました。80歳を超えた女性の教会員がお帰りになりました。ゆっくり、ゆっくりと玄関のところにいらして、挨拶をしていかれました。「何もできなくて、ご迷惑ばかりおかけして申し訳ございません。」そのようにおっしゃいました。私も何かを申し上げましたが、果たしてお心に届いたのか…。何と言葉をおかけできたのでしょうか。
カトリック教会の司祭で、日本で長く伝道をされたホイヴェルス神父が紹介してくださった詩があります。「最上のわざ」といいます。
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。
(『ホイヴェルス随想選集 人生の秋に』より)
本当にすばらしい詩です。心を打たれます。「おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。」すごい言葉です。本当に、それは偉い仕事です。
皆さんは神の子どもです。この福音の事実は、いつでも、どんな時にも、決して変わることはありません。働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙りつつ、失望しそうなときになおも希望することができるのはなぜか。それは皆さんが神の子どもだからです。その事実が決して変わらないからです。私は神の子という事実が生み出す喜びの実りです。
Ⅱ. 主イエスはすばらしい
18節に「あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは」と書いてあります。「先祖伝来の生活」というのは、この社会の中でごく一般的に、常識的だと思われている生活、といった意味だと思います。それでは、なぜそれが「空しい」のでしょうか。問題の急所は、私たちが一体何で自分を満たそうとしているのか、ということであると思います。
12年くらい前のクリスマス・イブのことです。私はその年のさがみ野教会のイブの礼拝でクリスマスの説教をしました。この礼拝のために教会を挙げて準備しました。町にビラを配り、求道者や長欠者にお手紙を送りました。それらを見て礼拝に来てくださった方たちと一緒にクリスマスを祝った。説教が後半にさしかかったくらいだったでしょうか。突然、私は意識を失ってその場で倒れてしまいました。どうやら脱水を起こしたらしい。その日の礼拝には看護師の方が2名出席しておられました。私は彼女たちに助けていただきました。礼拝は、長老が祈りをしてくださってその場で終わりました。
辛かったです。消えてなくなりたかったです。私たちは、「できる」ことや「迷惑をかけない」ことに安心するし、自分の価値を見出しがちです。ところが、「できる」ということは最後まで私たちを支えません。必ずできなくなるときが来ます。あるいは「迷惑をかけない」というのは、そもそも傲慢な考え方だったのかもしれません。他者の迷惑にならなければ私たちは生きられません。「できる」も「迷惑をかけない」も、そういうことに自分の価値を見出そうとするのは、空しい生活でしかないのかも知れない。
しかし、私たちはそういう生活から「贖われ」ました。奴隷になった人を買い戻すようにして、私たちは買い取られた。どうやってか?「銀や金」には依りません。銀も金も、空しい生活に属するものです。そうではなくて「傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」
これです。この事実が、私たちの命の価値を決めるのです。キリストの尊い血が皆さんお一人おひとりのために流された。だからあなたの価値、あなたの尊さ、それはどんな時にも絶対に確かなのです。
主イエス・キリストは本当にすばらしいお方です。皆さんを神のものとして買い戻すために、ご自分の血を流してくださいました。
Ⅲ. 祈りつつキリストを待ち望もう
「それゆえ、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(13節)」
あなたは神の子どもです。だからこそ、主イエス・キリストが再び来てくださるときに与えられる恵みをひたすら待ち望みなさい!
ここに、「身を慎み」とあります。この言葉は「酒に酔わないで」という意味です。「しらふ」ということです。今回の説教の準備で、面白い解説を見ました。「身を慎み」というところを、ドイツ語の聖書で「しらふ」と翻訳している。それで「しらふ」というドイツ語を調べてみると、もともとは「修道士の夜の祈り」という意味がある言葉であった、というのです。夜、皆が酒を飲んで酔っている時間にしらふで祈りを献げている修道士たち。その姿が「身を慎む」ということだ、といいます。
主イエス・キリストとその恵みをひたすら待ち望む。それは、祈りつつ待つということです。キリストの恵みを待ち望んで、祈りに打ち込む。
19世紀のドイツでディアコニッセと呼ばれる女性たちが誕生しました。日本語では「奉仕女」と呼びます。当時のプロテスタント教会が始めた救貧の活動に献身した女性たちです。その生涯を貧しい人々のために献げた。プロテスタントの修道院のようなところで共同生活をし、貧しい人のための奉仕と祈りを献げて生き抜いたのです。
やがて、彼女たちも年をとり、そのような奉仕の業をすることができなくなる日が訪れます。そんな人生最後の日々を奉仕女たちは「祭りの前夜」と呼ぶのだそうです。主イエスさまにお目にかかることのできる祭りの日がいよいよやって来た。そのことを喜び、そして、働くことのできなくなった手を合掌させて祈りを献げる。そうやって祭りの前夜を喜び、祈ることで過ごしていく。
主イエス・キリストがくださるこの喜びは、決して変わることがありません。空しくなってしまうことがないのです。例え私たちが愛するイエスさまが分からなくなってしまう日が来ても、主イエスは私たちを決して忘れずに覚え、私たちの名前を呼び続けてくださっています。ご自分の子どもとして!


