向きを変えて

潮田健治牧師 説教要約
2024年9月8日
申命記1章6-8節
マルコによる福音書1章35-39節

「あなた方は長くこの山地にとどまっている」 とどまる/動かないというのには、それなりの理由があるのです。しかし今は、その理由はそこに置いて、「向きを変えなさい。」どういう理由がこちらにあろうとも、向きを変える時だ、と言うのです。
私が初めて行った教会は、希望が丘教会でした。希望が丘教会は、長い間、高座教会の家庭集会でしたが、現在地に礼拝堂を建てて、今の場所で礼拝を始めたのです。礼拝を開始してから5年後の1968年(昭和43年)、教会設立礼拝(組織自立)を行い、さらに同じ年に、幼児園(無認可幼稚園)を開園しました。私が初めて教会に行ったのは、その年だったのです。しかしその年は何か問題があったのでしょう。統計を見ると礼拝人数が22人、最低を記録していました。当然、「今は教会の内側を整えるべき時だ」という声もあったのです。しかし、「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」(テモテへの手紙二4章2節)。この言葉に励まされて、出て行ったと、後から聞きました。御言葉によって、自分自身が引き出され、そこで向きを変えたのです。そうすることで、その困難、悩みから、自由になった。
とどまる/動かないというのには、それなりの理由があるのです。しかしその理由はそこに置いて、そうではなく、向きを変えるのです。「あなた方は長くこの山地にとどまっている」聖書の人々は、自分の持っている自分なりの、そのイメージから離れる時を迎えたのです。向きを変えるということは、今までのものを「抱え込んで」いたのではダメで、離れる。一旦、今までのものを捨てるのです。向きを変えるには、見ていた方向を離れる。すなわち、捨てるのです。捨てたなら、手が空きます。そこで新しくこの手に入って来るもの、新しく見えるものは、何でしょうか。

さて、旧約聖書でおそらく最大の物語は、聖書の人々イスラエル民族がエジプトの奴隷から解放された、出エジプトの出来事です。今日の聖書個所は、その消息が書かれている個所を朗読しました。聖書の後ろにある「地図2」には、聖書の人々が、エジプトの奴隷から解放された経路が書かれています。まず南にくだり、そして北に上ります。次にまた南に、そしてまた北に、そういう経路になっています。
この間、40年でした(1章3節)。しかし「ホレブ(シナイ山)から…カデシュ・バルネア」までの道のりは「11日」です(2節)。この11日の距離と比べると、なぜ40年になるのでしょうか。この理由を知るために、ここで、しばらく聖書の言葉を追ってみたいと思います。
1章6節「…あなた方は長くこの山地にとどまっている。向きを変え、出発して、アモリ人の山地、…大河ユーフラテスにまで行きなさい。」この時点で、今いるところは、シナイ半島南端の「ホレブ」です。地図では「ホレブ(シナイ山)」。そこで人々は十戒を授けられ、神の言葉を聞き、19節「私たちはホレブを出発し、…カデシュ・バルネアまで来た。」
そこで、21節「…恐れてはならない。おののいてはならない。」モーセは、神の言葉を聞いた人々に、これからも、恐れずに進もうと、励ましています。人々は、行き先に強い先住民がいることを知って、恐れたからです。26-27節「…あなたがたは上って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。あなたがたは自分の天幕でつぶやいて言った。」
神の言葉を聞いて、よし、がんばるぞ、と意気揚々と出発するのです。しかし、やがて、嫌でも周囲のことが見えて来る。私たちなら人間関係とか、仕事のこととか、災害とか。そこで、恐れが出て来る。不平も出て来る。「自分の天幕でつぶやいて言った。」不平、陰口をたたく。こうして自分たちで語り合う言葉、不平とか不満とか、不信の言葉が家々に充満して、神の御声をかき消してしまうのです。すると、神から離れてしまった心は、結果、自分の計画、自分の力に頼る、という方法で現われてきました。41節「…おのおの武器を携え、軽々しく山に登ろうとした。」おのおのが、軽々しく、です。神に止められても、43節「…あなたがたは耳を貸さず、主の命令に逆らった。そして、傲慢にも山に登って行った。」
彼らは何も捨てず、言われてもいない勇気を振り絞って前進した結果は、大敗北となりました。
ここまでが、申命記1章に書かれています。こうして2章に入ると、この荒れ野で、40年が経ったことが書かれています。1節「…セイルの山地を長い間歩き回った。」これは、訓練の時を与えられた、というように理解できるでしょう。そして40年後、そこで聞いた言葉は、再び、今日、最初にお読みした聖書の言葉と同じです。2章3節「あなたがたはこの山地をもう十分に歩き回った。向きを北に変えなさい。」安易に自分のやり方しかできなかった人々にも、再び神は、声をかけてくださるのです。

このように読んで来ると、エジプトを出た人々の旅路と、私たちの信仰の旅路と、どれほどの違いがあるかと思います。最初は、シナイ山でモーセによって神の言葉を聞いた。礼拝で説教を聞く、私たちの姿に重なります。それは、1週間の疲れを癒し、新たに迎える1週間の備えとして、多くの慰めを受け、平和を考える大切な時となります。
しかし、神は言われます。そこは、ずっととどまる場所ではない。1章6節「…あなたがたは長くこの山地にとどまっている。向きを変え、出発し…なさい。」ここは、こう言い換えることが出来ます。礼拝の山では、自分一人が聖書の言葉を聞いて慰めを受けている、と。しかし、その山地では、隣人の必要に手を差し出さない、伝道のためにチラシ1枚も手渡さず、人を教会に誘うこともない、自分のことしか考えない、自分一人が幸せになる、そういう山地であった…かもしれません。彼らと同様、私たちは、そこから動こうとしないのです。キリスト教とは、こんなものだろう。キリスト者の生活は、このくらいでいいだろう。そんなふうにして、ある人は勝手に理解して動かなくなっているのです。

そういう中で、私たちは先を目指さなければならないのだ、と気づく人が出てきます。しかしやがて、案の定、周囲のことが目に触れて、恐れが出て来る。すると「自分の天幕でつぶやいて言った(不平を言い合った)」つまり礼拝にも行かず、陰口をたたく。神さまなんか何も聞いてくれないんだ。あの人が悪い。この人が悪い。主が語りかけられているのに、人々はそれを聞かないで、自分の場所で、陰で、互いに語り合うのです。聞こえて来るのは、お互いの言葉ばかり。そこで何が始まるかというと、人間の恐れや不安、愚痴が大きくなるしかないのです。
結果、その心がいつのまにか神から離れてしまい、自分の考え、自分の力に頼り、神に背く、という形で現われました。主は、そういう彼らに対して40年の時間を取ることを必要とされたのです。40年間というのは、神の言葉を自分に都合の良いようにしか聞かない人間に、悔い改めを促す40年間だったと思われます。その悔い改めがなければ、先に進むことが出来ない、のです。

やがて、再び、神の言葉を聞く日が来たのです。2章3節「あなたがたはこの山地をもう十分に歩き回った。向きを北に変えなさい。」私たちには、恵みによって「出発の時」があることを、心に留めたい。出発とは、今までの生活を捨てることを意味します。向きを変えるとは、新しい目標に向かうことなのです。「…あなたがたは長くこの山地にとどまっている。向きを変え、出発し…なさい。」そして神が期待されているのは、「大河ユーフラテスにまで行きなさい」です。まだ知らな、思いもかけない方向が、神から期待されていた、という意味です。それが、彼らの舞台だったのです。
私たちは、いつまで自分のことだけに満足しているのでしょうか。または、いつまで自分のことだけに堂々巡りしたらいいのでしょうか。私たちは、もう久しく「この山地」にいるのではないでしょうか。「向きを変え、出発しなさい。」 出発の時は来たのです。私たちの舞台は、今、神に用いられる器になる、時が来たのです。大河ユーフラテスにまで行く、時が来たのです。

さがみ野教会のある場所は、昔、高座海軍工廠があり、「雷電」という戦闘機を作っていた場所です。横にある桜並木は、その戦闘機の滑走路でした。しかし今は、礼拝という滑走路が建設され、福音をもって生かされた一人一人が、その場所から、飛び立っています。さがみ野教会の礼拝は、そういう意味での「滑走路」になったのです。
高座教会は、このさがみ野教会と合同する計画を進めています。そして、「大河ユーフラテスにまで行きなさい」神のドラマが、場所から言えば二つの滑走路から、旅立つ時を迎えようとしています。
大河ユーフラテスは、出エジプトの人々は、まだだれも見たことはありません。私たちもそうです。二つの教会が「大河ユーフラテス」を目指す。そこは、だれもまだ見たことはありません。その見ないところに向かって、今、出会っている二つの教会が、その仲間たちが一つになって、新しい「滑走路」を建設します。そして私たちは、この滑走路から旅立ち、「大河ユーフラテス」を目指します。私たちはここで「向きを変え」、「大河ユーフラテス」を目指す、神が用意されたと信じる物語へ、旅立つのです。