弟子の選びと派遣
<聖餐式> 和田一郎牧師 説教要約
2024年9月1日
イザヤ書52章7,8節
マタイによる福音書10章5-15節
Ⅰ. 飼い主のいない羊のために
イエス様はガリラヤの町を巡り歩いて、神の国の福音を宣べ伝えました。そして、行く先々で人々を癒されました。その様子が9章35節以降に記されています。そこには「町や村を残らず回って」とあります。イエス様が熱心に丁寧にこのガリラヤ地方で働かれたことが分かります。それはとても忙しい日々であったようです。何故かと言うと、「群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(36節)からです。
ガリラヤ地方は、都エルサレムのあるユダとは違って、異邦人との血が混じった人々だと見下された人々が多くいました。イエス様はそのような多くの群衆の姿をご覧になりました。とても一人では担えない働きであったのでしょう。そして、いつか自分がいなくなった時のことも考えました。そこで十二人の弟子を選んで派遣することにしました。「弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。』」
「収穫」というのは、救われるべき人が多いということです。自分は神の祝福にあずかることがないと思っていた。社会からも思われていた人々が多かった。しかし、今や主イエス・キリストが来られたことで、彼らに救いの主が現れたのです。救いの対象となる人たちは多くいました。イエス様はその救いの到来を宣べ伝えるために十二人を選んだのです。そして、誰のところに行くのかというと、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(10:6)と言ったのです。神の国の到来と癒しの業を、自由にどこに行ってもいいというのではなく、羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」と言ったのです。
本日の箇所ではイエス様が十二人を特別に選び出されました。十二人を呼び寄せ選ばれました。十二人の名前も2節以下に並べられていきます。彼らは、イエス様によって選ばれ、指名を受けた人々だったのです。十二人の弟子たちが選ばれ、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすためであった」のです。
Ⅱ. 派遣された弟子たちへの教え
ここに書かれている派遣された弟子たちへの教えは、私たち教会に集う一人一人に対する教えです。イエス様が十二人を選ばれたように、教会でも小グループを作っています。高座教会の長老はちょうど12人ですが、長老だけではなく高座教会では小グループを大切にしています。イエス様の弟子はもっと沢山いたのです。しかし、その中からあえて十二人を選んで宣教の働きをしたことに倣って、教会では小グループを大切にしています。
一人一人と対話ができて、人格的な関係が作れるのが小グループです。12人だと少し多いかも知れません。5人から10人ほどの小グループによる祈り会や奉仕グループが信仰の友として、支え合っていくのにちょうど良い人数なのです。ボーイスカウトやガールスカウトも同じシステムで活動しています。イエス様が十二人という小グループを作ったことを模範としているのだと思います。
彼らは派遣されるためにこそ選ばれたのです。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。」(5,6節)と、イエス様がここで命じられたことは、差別して、異邦人やサマリアに行ってはならないと言ったのではないのです。イスラエルの中にいる「失われた羊のところ」つまり、その地域にいる社会から存在を失っているかのように苦難の中にいる人達のところへ、まず行きなさいということです。もちろん神様の祝福は裕福な人や政治家や軍人にも及びます。実際、イエス様はローマの百人隊長の子も癒されますが、このガラテヤで宣教を始めた理由は、虐げられた人々が多かったからです。私たちの教会も、まず、そこに目を向けていかなければならないでしょう。
イエス様は、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と言われました(8節)。これは恵みの原則ですね。「恵み」というのは、受ける資格のない者に、無償で与えられるものです。こちらが何かをしたから報いとして与えられるものではありません。罪深くて、疑い深くて、神様に背をむけていた、神の祝福を受けるに値しないような自分に与えられるのが「恵み」です。 ですから、多くを与えられていても誇ることはできませんし、少ししか受けていなくても、不満を言うことはできません。
この時弟子たちは、イエス様から、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やす」力を授かりました。すごい力です。たとえ大金を払ったとしても、国の王様であっても、努力を尽くしても手に入れることのできないものです。病人をいやし、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出す力は、人間の力を完全に超えていたものです。それは「ただで」しか受け取ることのできないものなのです。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」という教えは、すべての信仰者に言えることです。私たちは多くの恵みを受けました。そして、感謝されるとか、されないとか、称賛されるとか、されないとかを求めない、報いを求めずに与えるということが、恵みを受けた者の唯一の応答の仕方なのです。
イエス様が教えてくださった「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とは、「恵みを受けた者が応答する原則」であることを心に留めたいと思います。日本でもボランティアという活動が普及しました。キリスト教の教えがベースにある欧米では、この恵みの原則が伝統の中にあります。私たちは恵みの応答として、世の中に仕えていきたいと思うのです。
Ⅲ. 平和のあいさつ
弟子たちが遣わされた先で何をするべきか。
「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」(12節)
ユダヤ人の社会では日常の挨拶は「シャローム」と交わします。日本語の「こんにちは」「こんばんは」「さようなら」のような意味があって、誰かと会った時や別れる時に使われてます。この「平和があるように」という言葉が派遣された者が携えていくものです。
イエス様は町や村に入ったとき、誰の家に滞在するのが相応しいかを、よく調べるように勧めています。その相応しい人というのは、平和が与えられるのに、ふさわしい人ということです。神の国の到来を伝える使徒たちは、神の平和が与えられるにふさわしい人なのです。
今日朗読したイザヤ書にあるように、「なんと美しいことか 山々の上で良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え 救いを告げ シオンに「あなたの神は王となった」と言う者の足は。」(イザ 52:7)とあるように、福音を伝える信仰者には、神の平和が与えられます。
その伝える人を受け入れる人も、それに相応しい人です。私たちが、この人が相応しいとか相応しくないとかを判別をするのではありません。私たちは誰に対しても「平和があるように」という神の祝福を祈るべきですが、心を閉ざして受け入れない人は、その喜びには与れないでしょう。ただそれは、主に全てを委ねるべきことでしょう。
Ⅳ. 派遣された者として
弟子たちの派遣はこのような祝福の使者として遣わされることです。これは十二使徒たちに語られているものですが、この教えはここにいる私たちたちに語りかけられ、与えられているものでもあります。私たちは一週間の生活の中から礼拝の場へ選ばれ、召されて集められました。それは使命を与えられ、神の国の福音を宣べ伝える者として、この世に派遣されていくためです。使徒たちに語られた言葉は、この礼拝から遣わされ私たち一人ひとりに語りかけられている言葉です。
この礼拝で「派遣の言葉」と共に送り出された私たちは、一週間の生活の中で「平和があるように」という言葉を携えていきます。そして、また日曜日の礼拝に集められます。この一週間のリズムによって私たちはキリストに似た者へと整えられていくのです。
私たちは、ただで大いなる祝福をいただきました。この一週間、報いを求めずに与えるもので在りたいと願います。
お祈りいたします。