信じます。信仰のない私をお助けください
<歓迎礼拝> 宮井岳彦副牧師 説教要約
マルコによる福音書9章14-29節
2024年10月20日
Ⅰ. 苦しむ父親の最後の望み
今日の聖書の御言葉を読んで、神学生の時にお目にかかった一人のキリスト者を思い起こしました。夏期伝道実習で研修させて頂いた東大宮教会の方です。その方は看護師でいらしたか、あるいは別の立場だったかもしれませんが、かつててんかんの子どもたちをケアするお仕事をしておられました。特に症状が重い子どもたちの側にいたそうです。一度発作が起こると子どもたちは脳にたいへんなダメージを受けることになる。そんな様子を前にして自分は無力で、ただ側にいること、手を握ること、抱きしめることしかできなかった。「私は側にいて、そうやって身を震わせている子どもを抱きしめてひたすら祈っていた」とおっしゃっていました。
今日は一人の父親の話です。息子がいます。霊に取りつかれてひどく苦しめられてきた。「霊がこの子を襲うと、所構わず引き倒すのです。すると、この子は泡を吹き、歯ぎしりをして体をこわばらせてしまいます。(18節)」父親が主イエスにそう訴えています。自分の愛する子ども、かわいい息子がこのように苦しんでいるのを見なければならなかった…。この父は一体どんな思いだったのでしょう。彼が言うことのたった一つでも、もしも自分の息子が経験しなければならないと考えたら、本当に胸の張り裂ける思いになります。
それだけではなく、「霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました(22節)」とも言っています。もしも息子が水の中に身を投じれば、この父親も水に飛び込んで息子を助けたでしょう。火に身を投じたら、この父親だって火に飛び込んで息子を引き出したに違いない。しかしそうやって苦しむ息子の苦しみを取り去ってあげることはできませんでした。
この息子は一体何歳なのでしょうか。幼い子どものようなイメージが私にはありました。しかし21節で、父親はこのような症状は「幼い時から」だと言っています。そうならば、もう既に幼い子どもではないのでしょう。10歳なのか、15歳なのか、あるいは30歳か40歳かもしれません。何歳であっても、息子は息子です。そして、父は父です。この父親は長いことずっと苦しんできた。いや、この子の苦しみに比べれば自分の苦しみなんて…。そう思ってきたのではないでしょうか。
そんな父親にとって主イエスのもとへ行くというのは、文字通り最後の望みだったのだと思います。最後の最後に、主イエスさまにどうにかして頂けるかもしれないと願って、やって来たのだと思います。
Ⅱ. 不信仰な時代
父親はお弟子たちにこの子に取りついた霊を追い出してくださいと願います。しかし、弟子たちにはできませんでした。祈ったでしょう。熱心に神様に祈ったでしょう。しかし、彼らにはこの子に取りついた霊を追い払うことができなかった。そんなところに主イエスが来てくださったのです。
事情を知らされると主イエスがおっしゃいます。「…なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。(19節)」
私はこの言葉を聞くと、すごく胸が痛みます。この言葉を主イエスは誰に向けておっしゃったのでしょう。父親、弟子たち、周囲の人々…そのみんなだと思います。つまり、この私への言葉です。苦しむこの子のために何もすることができず、祈りも失ったたくさんの人々をご覧になりながら「なんと不信仰な時代なのか」とおっしゃったのではないかと思います。
イエスさまは「不信仰だ」とおっしゃいます。「君たち、神様を信じていないね」とおっしゃるのです。更にこの話の最後にまで至ると、弟子たちがイエスさまにこっそり尋ねています。「…なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか(28節)」。主イエスはお答えになる。「…この種のものは、祈りによらなければ追い出すことがはできないのだ(29節)」。弟子たちは祈らなかったのでしょうか。それは考えられません。祈ったはずです。ところが主イエスは「君たちの祈りは祈りじゃなかった」とおっしゃいます。「祈っている感」は出していたけど、祈っている格好はしていたけど、君たちの祈りは祈りじゃなかった、とおっしゃるのです。なんと厳しい言葉か…。
しかし、主イエスがおっしゃるとおりなのです。私はこの言葉を、自分自身への言葉だと本当に思います。祈りの支えが必要な人、いろいろな意味での助けが必要な人。私も牧師ですから、絶えず祈りを必要とする声を聞きます。しかし、自分の祈りのなんと無力なことか…。主イエスは、その無力の理由は私の不信仰にあるとハッキリとおっしゃるのです。祈っている感じはあっても本当には祈っていないからだとおっしゃるのです。辛い言葉です。しかし、本当のことなのだと思います。
Ⅲ. 「我慢」をめぐって
そんな不信仰な私は、一体どうしたら良いのでしょう。主イエスはおっしゃっています。「…なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。(19節)」ここに「我慢」という言葉があります。この言葉は少し翻訳が難しい言葉だと思います。日本語で「我慢」というと、意味合いとしては、かなり厳しい様子を表していると思います。我慢という日本語から、愛のニュアンスはあまり聞こえてきません。しかし、この「我慢」と翻訳されている言葉は、例えば「互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい(コロサイ3:13)」の「耐え忍ぶ」という言葉と同じ字が使われています。ここでは日本語の「我慢」にあるような愛を欠いた響きは一切ありません。主イエス・キリストが赦してくださったように、互いに耐え忍ぶ。むしろ、この「耐え忍ぶ」は「愛する」と言い換えることさえできると思います。これはそういう言葉です。そのことを踏まえて先ほどの主イエスの言葉に改めて耳を傾けたいのです。
「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」
主イエスは私たちの不信仰を嘆きながら、それでもなお「あなたたちと共にいる」と言ってくださいます。しかし、もうすぐ主イエスは十字架にかけられてしまう。いつまであなたたちと一緒にいられようか、と心配しておられます。いつまであなたたちと一緒にいて、こうやってあなたたちを愛し、受け入れてあげられるのか、とおっしゃっています。これは、主イエスの本当に深い愛に満ちたお心の発露(はつろ)です。
そして、主イエスは続けておっしゃいます。「その子を私のところに連れて来なさい。」その子を、あなたの息子を、あなたの娘を、あなたの愛する人、苦しんでいるその人を私のところに連れて来なさい。あなたの抱えている問題を、抱えきることのできないあなたの課題を私のところに持って来なさい。主イエスはそう言ってくださるのです。
Ⅳ. 信じます。信仰のない私をお助けください
息子が主イエスのもとに連れてこられました。父親は息子の苦しみを訴えます。そして言います。「…もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください。(22節)」父親の切なる思いが伝わる言葉です。必死の願いです。
ところが主イエスはおっしゃいます。「…『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる。(23節)」主イエスは私たちを信仰へ招いておられます。他の何でもなく、私たちが信じることを主イエスは願っておられます。
その子の父親はすぐに叫びます。「信じます。信仰のない私をお助けください。(24節)」これなのではないでしょうか。これこそ「信じる」ということなのではないでしょうか。私たちは、自分に信仰があるのかないのか、神様に堂々と「信じます」と言えるような立派な信仰があるのかないのかというようなことに心を煩わせる必要はない。自分の不信仰もまるごと神様に、正直に差し出して良い。「信じます。信仰のない私をお助けください!」
神様は何でもおできになる方です。私たちの病を癒やすことも、私たちを支配する苦しみから解放することも、神様にはおできになる。私もそのことは経験的によく知っています。神様にはあなたの抱えているものをすっかり解決することがおできになる。しかし、必ずそうなさるわけではないとも思います。それは、私たちの目には計り知れないけれど、私が願っていることが満たされるよりももっとすばらしく、もっとすごいことを神様がなさるプロセスです。
今日は一つの願いを持ってこのお話をしています。皆さんにも、主イエス・キリストと出会っていただきたい。主イエス・キリストを信じていただきたい。心からそう願っています。神様のなさることは私たちには計り知れません。しかしそれは必ず、私たちの思いを越えたすばらしい出来事の中の大切な意味を持っています。神様は信じる者には何でもおできになる方です。あなたの人生にも、あなたの大切な人の人生にも、すばらしい計画をお持ちです。
キリストはこの息子から悪霊を追い出してくださいました。神様の愛する子どもとして取り戻してくださいました。あなたも、あなたの愛する人も、神の大切な子どもです。だから安心して良い。安心して、あなたの「不信仰」を神に差し出してください。ここにあなたの信仰が始まるのです。
