できないものはできません

<秋の歓迎礼拝> 和田一郎牧師 説教要約
2024年10月27日
マタイによる福音書14章15、16節

Ⅰ. はじめに

聖書の神様は世の中の小さい存在や、弱い部分に目を向ける神様です。小さい存在を用いて大きな恵みを与えてくださいます。そして人間の目には弱いと思えるものを敬い高めてくださるという神様です。
最近「無理」という言葉がよく使われます。「私忙しいから無理」とか「私には負担が大きいから無理」というふうに使います。そして、難しかったら「無理」と言っていいよ、という世の中になっています。
しかし、無理だと思える中に神様からの働きがあることも事実なのです。「できないものはできません」と言える社会が大切です。しかし、自分本位に「無理」と片付ける前に神様に求めて、神様が私たちになにを期待しておられるのかを、考えていきたいと思います。

Ⅱ. ダビデの「できないものはできません」

まず旧約聖書の時代のダビデの話です。
神様はイスラエルの二代目の王を預言者サムエルに探しに行くように命じます。ベツレヘムに住むエッサイという男を訪ね、彼の息子のひとりを次の王に任命するように命じたのです。
エッサイには8人の息子がいましたが、サムエルの前に連れて来られたのは上の7人でした。羊の番をしていた末息子のダビデは数にも入れられず、その場に呼ばれもしなかったのです。けれども実は、神様が選んでいたのは、まだ少年の末っ子ダビデでした。父親のエッサイは驚いたでしょう。兄たちは立派で勇敢な勇士でもありました。小さな末っ子の息子に何ができるのだろうかと。しかし、人間の目とは違って、神様が選んだのは少年ダビデでした。
その後、イスラエルとペリシテの戦場で、ペリシテの大男ゴリアトが1対1の代表戦を挑み、挑発を繰り返すのを見たダビデは、生ける神の国に対して挑発するとは何事かと怒り、少年であるにも関わらずイスラエルの代表戦士にして欲しいと申し出ます。体格といい年齢といい経験といい、ゴリアトの相手になりようもないダビデをサウル王は止めますが、ダビデは「私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも、私を救い出してくださいます。」(サム上 17:37)と言って対決しようとします。サウル王は青銅でできた自分の鎧や兜を与えますが、少年のダビデには重くて動きにくいので「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」と断るのです。青銅の武具はサウルが使っている武具であって自分には自分の武具がある、それは「石投げひも」という小さな武具でした。他人の武具では戦えない、できないものはできません、として自分らしい武具だけを使って、見事ゴリアトを倒します。
ダビデは40年間イスラエルを統治した王でした。そしてダビデの死後から約千年後、イエス・キリストがダビデの子孫として生まれるのです。そのイエス・キリストも小さなものに目を向ける方だったのです。それが今日の聖書箇所「五千人の給食」の出来事です。

Ⅲ. 弟子たちの「できないものはできません」

ユダヤの国のガリラヤという地方で、イエス様は、病気の人を癒してくださっていました。噂を聞いた人々はイエス様のもとにやって来ました。多くの人々が押し寄せてきたので忙しくしていました。そしていつのまにか夕方になり、弟子たちはイエス様のそばに来て言いました。(15節)「ここは寂しい所で、もう時間もたちました。群衆を解散し、村へ行ってめいめいで食べ物を買うようにさせてください。」
彼らも私たちも疲れてお腹が減っているので、もう今日は解散にしましょうと提案したのです。しかし、イエス様は意外なことをおっしゃいました。(16節)「行かせることはない。あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」弟子たちは困ったでしょうね。数千人もの人々のための食料など、そこにあるはずがありません。弟子たち12人の手で食べ物を用意しなさいとおっしゃる。弟子たちは膨大な数の人々見渡して圧倒され、自分にできることは何もないと感じていたと思うのです。今日はもう解散して、各自で食べ物を何とかして欲しい。だからイエス様に「今日はもう解散にしましょう」と提案したのです。この弟子たちの言葉からは、早く解散して人々が自分たちの目の前から、居なくなることを、どこかで望んでいるような印象も受けます。
私たちは手に負えないと思った時、簡単に心を閉ざしてしまいます。簡単にというのは、現代の私たちは忙しさに追われがちですから、簡単に「無理」と言って心を閉ざしてしまうことがあるのではないでしょうか。
弟子たちもそのような心境であったと思うのです。毎日大勢の人々がイエス様の癒しを求めて集まってきますから、日々、忙しさに追われていたでしょう。五千人もの人々に対して、自分たちにできることは何もない、無理です、できないことはできませんと、彼らは思ったでしょう。しかし、そのような弟子たちの心を知っておられたイエス様はあえて「行かせることはない。あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」と言われたのです。
よくよく見てみると、かろうじて五つのパンと二匹の魚だけがありました。ありましたが、これだけあっても仕方がない。そう思いつつも、弟子たちは言います。(17節)「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と。「これしかありません」、「これしか」と思ったのは弟子たちが勝手に思っただけです。五つのパンと二匹の魚が多いのか少ないのか。弟子たちは数千人の人々を前にして、目の前の小さい物が無意味に感じてしまったのです。あやうく見過ごしてしまいそうな、僅かなものですが、よくよく見ると、ないと思っていた食べ物が、僅かにあった。イエス様がおっしゃりたかったのは無理難題ではなかったと思うのです。今、目の前にいる人々のために、自分にできることをしなさい、ということをおっしゃりたかったのではないでしょうか。
探すとパン五つと魚二匹があった。イエス様は(18節)「それをここに持って来なさい」と言われました。さらに群集には草の上に座るようにと命じられました。弟子たちは疑問に思いながらも、イエス様の言われたとおりに五つのパンと二匹の魚を差し出したのです。
イエス様は弟子たちから受け取った五つのパンと2匹の魚を手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、それを裂いて弟子たちにお渡しになりました。弟子たちはそのパンを人々に与えました。すると、すべての人が食べて満腹したのです。残ったパンの屑を集めると、十二の籠がいっぱいになるほどでした。
この出来事は、人の目には無理だと思えること、「できないものはできません」と思えることも、もう一度、与えられているものを吟味すると、僅かなものが手元にあることが分かる、その僅かなものでも差し出すと神様によって必要が満たされることを教えています。
ダビデの場合は、自分の身の丈に合わない鎧や兜に対して「できないものはできません」と言って、<石投げ紐>という自分に合った武具で戦いに挑みました。
どちらも、「無理、できないものはできない」で止まることなく、小さなものなりに神様に委ねたことで、大きな恵みを与えられました。神様は私たちの小さなもので、豊かな恵みの業を成し遂げてくださることを私たちに伝えています。
私たちの目には小さくささやかな行為であっても、イエス様を通して、神さまの豊かな愛の御業へと変えられてゆくのです。私たちは「できないものはできません」とすぐに諦めてしまいますが、自分の力にたよらず、神様に差し出すことで、必要が満たされる。
イエスはおっしゃいました。「人にはできないことも、神にはできる」(ルカ 18:27)

Ⅳ. 私たちの「石投げひも」「パンと魚」は?

今日は「ダビデの話」と、「五つのパンと二匹の魚」の話をしました。どちらも小さなものが、神様を通して大きな実を結ぶ話です。神様は小さなもの、弱く見えるものを用いてくださいます。
大勢の人々のために何ができるかではなく、今の自分にできることはなにか、重い鎧や兜は「無理」でも、自分に合った石投げ紐があるならば、それを神様のために用いたいのです。今、目の前にいる数千人のために何ができるかを考えると「無理」だと思える。しかし、たとえ自分の手元にあるのがただ一つのパン、一匹の魚であったとしても、目の前にいる人とそれを分け合おうとすること。私たちの目には小さく、ささやかな行為であっても、神さまの目には「十分なこと」をしたと用いられるのです。
イエス様は、小さな私たちを通して神様の業を、この世で表そうとされています。そのために十字架に架かられました。小さな自分を通して、大きな必要を満たしてくださるイエス様と出会っていただきたいと思います。
お祈りをいたします。