主の教えを喜びとし、主にある交わりを力とする ー今年一年を振り返ってー

和田一郎牧師 説教要約
2025年12月28日
ネヘミヤ記8章10節

Ⅰ. 「主の教えを喜びとし、主にある交わりを力とする」

今年の最後の主日を迎えました。私たちはこの一年を、どのような思いで歩んできたでしょうか。今年を振り返ると、私は「ついていけない」と感じることがたくさんありました。今年は観測史上もっとも暑い夏でした、しかし、秋を感じる間もなく、11月から寒い冬のように寒い日が続いていて、日本海側では今年も大雪のリスクがあるそうです。この温度差に身体がついていけない、「AIが便利だ、AIを使え」と言われていて人間の尊厳はどこにいくのか?ついて行けない。世の中の平和を訴えるよりも異国人を排除する声が大きくなったり、隣の国との戦争に備えて軍事力に大金を使う、平和と反対方向に邁進する世の中についていけない。そのような、ついていけない思いが、たくさんがありました。
しかし、2025年、高座教会は「主の教えを喜びとし、主にある交わりを力とする」というテーマを掲げて1月に高座教会とさがみ野教会が合同し、新しい「高座教会」としてスタートした特別な一年でもありました。合同という出来事は、決して単なる制度の変更や組織の再編ではありませんでした。礼拝の形、交わりのあり方、奉仕の進め方、期待と同時に、不安や戸惑いを覚えた方もおられたでしょう。しかし、振り返ってみると、この一年、私たちは「同じであること」よりも、「主にあって共に歩むこと」を学んできたのではないでしょうか。同じ場所で、同じ形で、同じことをすることが一致なのではなく、場所と時間が違っていても、同じ神を信じ、同じ信仰告白をし、神の前に立つ礼拝者としての一致がある――そのことを、礼拝を通して、交わりを通して、少しずつ体験してきた一年であったように思います。

Ⅱ. ネヘミヤの時代に起こったこと

今日の主題聖句であるネヘミヤ記8章10節は、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民の礼拝の場面の中で語られました。紀元前537年、ペルシャの王キュロスの勅令によって、ユダヤ人たちはエルサレムに帰還を許されました。彼らはまず、それぞれの町で生活を立て直し、家を建て、畑を耕し、日々の暮らしを整えていったことでしょう。そして帰還からしばらく経った第七の月、人々は一斉にエルサレムに集まり礼拝を再開しました。その中心にあったのが、書記官エズラによる律法の朗読でした。夜明けから正午まで広場において実に六時間にわたって律法が朗読され解き明かされました。
注目すべきことは、その結果です。民はみ言葉を聞いて、喜び踊ったのではありません。彼らは泣き、深く悲しみました。律法の言葉を理解する中で、自分たちが神の教えに背を向けてきたこと、自分たちの歩みの歪みと罪とを、はっきりと示されたからです。
聖書のみ言葉は、人を慰めるだけでなく、痛みを伴って真実を示します。悔い改めの涙は、決して自虐的な弱さではありません。むしろ神の前に正直に立っている証しです。しかし、そこでエズラとネヘミヤは語ります。「嘆いてはならない。悲しんではならない。主を喜びとすることこそ、あなたがたの力である」と。

Ⅲ. 喜びは、分かち合うとき力となる

ここで語られる「喜び」は、表面的な明るさや気分の高揚ではありません。それは、み言葉によって示された罪の現実を受け止めたうえで、なお神が共にいてくださることへの、深い信頼から生まれる喜びです。エズラたちは人々に言いました。「行って、ごちそうを食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分けてあげなさい。」悔い改めで終わらせない。涙の先に、食卓が備えられる。しかも、その喜びは、自分たちだけのものではなく、備えのない者と分かち合う喜びでした。
これは、新約聖書のイエス様の姿を見ても分かることです。イエス様は罪人と呼ばれる人々と食卓を囲いました。律法を重んじる人々にとって、それは「律法に反する交わり」でした。しかし、イエス様にとってその食卓は、神の赦しと回復が、具体的なかたちで現れる喜びの場だったのです。イエス様の食卓は言い換えれば「神の国のしるし」です。神の国とは、努力して到達する理想郷ではなく、神が先立って来られ、人を招き入れてくださる現実です。罪人を招いて食事をする行為は「あなたは拒まれていない」「あなたは神の前に席を与えられている」という宣言であったのです。ここに生まれる喜びは、自分が正しいから得られる満足ではない。赦され、受け入れられているという事実に基づく喜びです。ですから、この喜びは一時的な楽しさや気分の高揚とは異なります。罪を自覚し、人生の破れや欠けを抱えたまま、それでも神が共にいてくださる。その現実を受け取ったときに湧き上がる、心の深いところからの喜びです。イエス様の食卓には、悔い改めが含まれていますが、悔い改めだけで終わりません。その先に「共に食べよう」という具体的な交わりが置かれているのです。
これはネヘミヤ記で語られた「行って、ごちそうを食べなさい。備えのない者には分けてあげなさい」という呼びかけと響き合っています。神様の前で自らの罪を知り、涙を流した人々に、神様は喜びの場を備えられました。その喜びは閉じたものではなく、分かち合われる喜びでした。イエス様の食卓もまた、選ばれた少数者の祝宴ではなく、招かれるに値しないと思われていた人々にまで開かれた喜びの場だったのです。
ここに示された喜びとは、「問題が解決したから喜ぶ」ことではありません。「問題を抱えたままでも、神が共にいてくださる」という福音に根ざした喜びです。だからこそ、その喜びは人を内側から支え、やがて隣人へと分かち合われていきます。イエス様が罪人と囲んだ食卓は、そのような喜びが、この世界のただ中にすでに始まっていることを告げる、静かで確かな証しだったのです。
喜びは、個人の内側に閉じ込めておくものではありません。分かち合うとき、共同体を支える力となります。主にある喜びは、教会を教会たらしめる力なのです。

Ⅳ. 合同の恵みを生きるこれからへ

今年、私たちは高座教会とさがみ野教会が合同し、一つの教会として新しい歩みを始めました。しかし、この一年を通して私たちが学ばされたのは、「同じ時に、同じ場所で、同じことをすること」が一致なのではない、ということでした。一致とは、形や方法をそろえることではなく、主にあって共に生きることなのだ、ということです。
今年は「身体も心もついていけない」と思わされると冒頭でお話しました。この世の中に、ついていけなくても、教会には、主に招かれ、共に座り、語り合い、支え合う交わりがあったということです。変わりゆく時代についていけない私たちを、主は置き去りにせず、交わりの中で確かに支えてくださいました。その恵みを私たちはこの一年、深く実感してきたのです。
お祈りをいたします。