教会のあるべき姿
和田一郎牧師 説教要約
2026年1月4日
コヘレトの言葉 3章1‐13節、22節
マルコによる福音書2章23–28節
Ⅰ. 「すべてのことに時がある」合同 神の時
昨年、高座教会とさがみ野教会は合同して、新しい高座教会としてスタートしました。今日はそれから一年たった記念の礼拝です。教会合同設立礼拝で潮田先生が選んでくださった聖書箇所はコヘレトの言葉3章の御言葉でした。コヘレトの言葉は、「天の下では、すべてに時がある」と語ります。このコヘレトの中心的なメッセージは、すべての出来事が移ろい、束の間であるからこそ、今という時に神の恵みを見いだして生きよということに集約されます。
昨年、さがみ野教会と高座教会は合同し、新しい「高座教会」として歩み始めました。これは単なる組織の再編ではなく「新しい教会が生まれる」ということです。どちらの教会にも課題がありましたが、礼拝を安心して続けていけるは喜びと同時に、失われるものへの戸惑いもあります。長い歴史の中で築いてきたものが変わっていくことに、寂しさを覚えるのは自然なことです。コヘレトは、人生を「空」と呼びます。この「空」は、無意味というよりも、「束の間」「一瞬」という意味です。あっという間に過ぎ去るからこそ、人は空しさを覚えます。しかしコヘレトは、そこで立ち止まりません。束の間であるからこそ、今という時が決定的に大切なのだと語るのです。
教会の歩みも同じです。どれほど力強く見えた時代があっても永遠には続きません。しかし、それは終わりを意味するのではなく、神が新しい命を与えられる時でもあります。合同という出来事は、「古いものが過ぎ去り、すべてが新しくされる」(2コリント5:17)という神の創造の業に、私たちが参加する時なのです。
コヘレトは、私は「見た」「知った」「見極めた」と段階を踏んで語ります。状況の厳しさを見つめ、そこでなすべきことを知り、そして今を生きる意味を見極める。その中心にあるのが祈りです。私たちは神の御心を完全に理解することはできませんが、祈りの中で、自分に与えられた務めを受け取り、「自分のわざを楽しむ」ことができます。
この教会合同の時を、失われたものへの嘆きだけで終わらせるのではなく、神が備えてくださる「今」という時に、新しい命と新しい創造を見いだして生きる。そこにこそ、神が与えてくださる喜びがあります。
Ⅱ. 「安息日は人のために」教会は誰のため?
マルコによる福音書2章で、イエスは安息日をめぐってファリサイ派の人々と対立しました。23節「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った。」ファリサイ派の人々は、安息日に麦の穂を摘む行為を「収穫」していると難癖をつけているのです。穂を摘むことは「刈り取り」であって、手でもむことは「脱穀」に相当する。それは安息日に禁じられた労働ではないかと非難されたのです。その時、イエス様ははっきりと語られました。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。」
ここでイエス様が教えてくださっていることは、規則を守ることが目的なのか、それとも人を生かすことが目的なのか、ということを明らかにしてくださっています。
教会も同じです。教会のために人が存在するのではありません。制度や伝統や組織を守るために、人が苦しむなら、それは本末転倒です。教会は、人が神の前で安らぎ、回復し、再び生きる力を受け取る場所です。その喜びを自分だけで抱えるのではなく周囲の人々にも伝える宣教のためです。合同して歩む私たちも、何度でもこの問いに立ち返る必要があります。「教会は誰のためにあるのか」その答えは、いつも「人のために」です。信徒のためであり、まだ神様を知らない、どこかの「人」の為なのです。
さらに、イエス様は言われました。25節「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか」と。イエス様は、旧約聖書の一つの出来事を示しています。ダビデがまだ王となる前の事です。命を狙われて命からがら逃げ伸びていた時、空腹に耐えながら逃れていました。その時に出会った祭司に頼んで食べ物を求めたのです。そこにあった食べ物といえば、律法上は祭司しか食べてはならない供え物のパンだけでした。祭司しか食べてはならないと律法に定められていたパンでしたが、祭司はダビデたちに差し出したのです。
安息日とは一週間の仕事を離れて休む休日のことです。礼拝を捧げる日です。それは本来、疲れた人が休むための日、命を回復するための日、神の前で人が人らしさを取り戻すための日でした。ところが、年月が経つにつれて人は律法に細かい律法を作り続けていき、いつの間にか安息日は守るか守らないかを測る物差しとなり、人を縛る重荷になってしまっていたのです。イエス様は、安息日を否定されたのではありません。安息日の本来の目的を、もう一度取り戻そうとされたのです。
Ⅲ. 教会の本質を問う祈り
イエス様は最後にこう言われます。「人の子は安息日の主でもある。」(28節)「安息日の主でもある。」と「でもある」とはどういう意味でしょうか。これは、安息日を支配する主という意味以上に、人の命を守る主が、真ん中におられるという意味です。合同した高座教会の中心に置くべきことは、私たちの歴史でも、やり方でも、律法を守ることでもありません。安息日の主であるイエス・キリストを中心にして礼拝することです。
この安息日の主がおられるところで、疲れた人は休み、迷う人は立ち止まり、傷ついた人は癒やされていきます。教会が合同することは、完成ではありません。これから共に学び、整え、支え合っていく旅の始まりです。その歩みの中で、もし私たちが迷うことがあるなら、この問いに立ち返りたいのです。「これは、人を生かしているだろうか。この教会で、人は安息を得ているだろうか。」
Ⅳ. 新しい創造に参与する教会
合同するにあたって、私は「喜びのある教会をめざして」と話させていただきました。
喜びというのは、私たちの感情のことです。身近にある具体的な感情です。教会は、教会に繋がることが、教会の輪の中に加わることが、具体的な喜びとなるために存在しています。立派な言葉だけの板を掲げて忘れてしまう理想や理念のようなものではありません。
教会はまず、主を信じる私たち信徒が、神様の前に立ち止まり、安息し喜びを噛みしめる場所です。それは「喜びを受け取って何もしなくていい場所」という意味ではありません。神が私たちを「極めて良い」と言ってくださる、その恵みを受け取り、「このままで受け入れられている」という喜びを、身体と心で現していく場所です。それだけで完結するのではなく、教会は同時に、まだその喜びに与っていない人々と交わる場所です。地域の中で、疲れ、孤独を抱え、休むことができずに生きている人々を、神の安息へと招く場所です。神は信徒たち一人一人が礼拝を通して安らぎ、奉仕を通して喜びを分かちあう具体的な愛の実践を喜こばれます。
そのことを、神は安息日の戒めの中で、驚くほど具体的に示してくださいました。
「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、町の中にいる寄留者も同様である。」
神は、「誰が安息すべきか」を曖昧にされませんでした。立場の強い人だけではない。信仰の深い人だけでもない。家族も、働く人も、弱い立場にある人も、そして、外から来た寄留者にも喜びを与えなさいと宣言されています。すべてが共に休み、共に喜ぶことを、神は望まれたのです。この具体性こそ、神の愛の姿です。
同じように、私たち高座教会の存在もまた、抽象的な理念や理想にとどまるものではありません。この地域の中で、誰が喜び、誰が安息を得るのか、そのことに具体的に関わる存在であることが、神の喜びなのです。
安息日は人のために定められました。高座教会も人のために立てられています。誰も独りぼっちにならない教会として、小グループからなる教会。この地に高座教会があること。この地域に、安息と喜びのしるしが置かれていること。そのこと自体が、神の喜びなのです。私たちは、これからも、信仰が人生と結びつき、教会が生活に実際の影響をもつ場となることを目指します。具体的な安息がここから始まる。具体的な喜びがここにある。そのような教会として、主の喜びに仕えながら、共に歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。


