手の萎えた人を癒す

和田一郎牧師 説教要約
2026年1月11日
詩編57編1-12節
マルコによる福音書3章1-6節

Ⅰ. 安息日の主として会堂に立つ

最初の1節に「イエスはまた会堂にお入りになった」とあります。1章21節以下には、イエス様がカファルナウムの町の会堂に入って教えられたことが語られていました。そこでは、権威ある者のようにお教えになっていた・・・すると汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と言ったことが記されています。霊的な存在である悪霊だからでしょうか、悪霊はイエス様が神の聖者であることが分かりました。この時からイエス様は宣教を始めたのです。また1章39節には、「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とあるように、ガリラヤ地方で伝道の活動をお始めになった最初の頃、あちこちの会堂で教えを語っておられたのです。会堂とは、ユダヤ人が安息日ごとに集まって神を礼拝し、律法の教えを聞く場所です。イエス様は、その安息日の礼拝に出席し、そこでお語りになりました。本日の箇所の3章1節「イエスは会堂に入られた」という言葉も、人々に話をするためであり、この日も安息日でした。
その会堂に片手の萎えた人がいました。イエス様が話をしておられる礼拝、集会の場に、障がいをもっていて苦しんでいる人がいたのです。2節に「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人を癒やされるかどうか、うかがっていた」とあります。イエス様がこの「手の萎えた人」を見てどうなさるのかに注目していました。
先ほど触れた1章21節以下でも、汚れた霊に取りつかれた男が会堂にいました。イエス様はその人を悪霊の支配から解放されましたが、その時には問題視する人はいませんでした。ところが前回の2章23節以下では、ファリサイ派の人々が麦の穂を摘んで食べている弟子たちを見て「あなた方は安息日にしてはならないことをしている」と弟子たちを批判しました。イエス様と弟子たちは、安息日の掟を守っていないという非難が高まり始めていたのです。その流れの中で、また安息日がやってきて、人々は会堂に集まっていました。そして、イエス様が癒すかどうかを注目しています。それは信仰のまなざしではなく、「訴えよう」という悪意をもった注目でした。
当時の律法解釈では、命に関わるような治療は、安息日でも許されていたそうです、しかし、安息日が終わり明日まで待てる病やケガの治療は「仕事」とみなされていました。この人が「片手の萎えた人」であったということは、今すぐ命に関わる状態ではない、ということでしょう。日没まで待てば安息日は終わる。だから今癒す必要はない、それが当時の律法理解でした。つまり、この会堂で安息日に「手の萎えた人」を癒すことは、安息日の律法を破る行為だと、意図的に設定されていたのかも知れません。
しかし、イエス様は、まさにその安息日のただ中で癒しを行おうとされました。それは、ご自身こそ「安息日の主」であり、究極の安息をもたらすメシアであることを示すためでした。

Ⅱ. 「真ん中に立ちなさい」

イエス様が意図的にそれをなさったことは、3節の言葉から明らかです。
「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた」。この人を、会堂の真ん中に立たせたのです。一見すると残酷に思えます。不自由な障がいを負い、人々の視線にさらされながら生きてきた人です。できれば目立たずにいたかったでしょう。それでもイエス様は、あえて真ん中に立たせました。ここに大切な意味があります。
イエス様の救いのみ業は、多くの場合、人々の見ている前で行われます。こっそりと隠れて行われることはありません。それは、イエス様こそまことの神であり救い主であることを示すためです。
しかしそれだけではありません。救いにあずかる者の側にも大切な意味があります。救いは、自分とイエス様との間だけで密かに起こる出来事ではありません。人々の前で、共同体の真ん中で与えられるものです。その、しるしが洗礼です。洗礼は、この礼拝堂の真ん中で、多くの会衆が見守る中で行われます。「洗礼は神様と自分個人との問題だ」と考える方もいますが、イエス・キリストによる救いは、キリストの体である教会に加わることです。決して隠れて洗礼を受けるものではないからです。私たちは皆、イエス様から「真ん中に立ちなさい」と招かれているのです。

Ⅲ. 拒絶の沈黙と怒り(罪が露わになる会堂)

会堂の中、人々が注目する中で、イエス様は問いかけます。「安息日に律法で許されているのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。集まった人々は、手の萎えた人を癒すのか、癒さないのか?そこに注目していたのですが、イエス様は「善か悪か?」「命を救うのか?殺すのか?」と問うたのです。
イエス様が問題にしているのは、律法の解釈の問題ではありません。安息日にして良いことと悪いことという話ではない。
イエス様が問題にしておられるのは、まさに、「今、ここにいる私は、善を行う者なのか、悪を行う者なのか。命を救う者なのか、殺す者なのか。」つまり、ここにいるイエス様を、神の救い主として受け入れるかを問うておられるのです。これまでガリラヤ中の会堂を訪ねて宣教し悪霊を追い出してきたことを、知っている彼らに向かって、ここにいる私は何者なのかを問いただしているのです。さらに彼らの心の中は、「イエスを訴えようと思って」いた。罠にかけて殺そうという企みがあったのです。救う者なのか、殺す者なのか?殺すことを考えている彼らと、ご自分とを明確に区別されたのです。ですから彼らの反応は次のようなものでした。「彼らは黙っていた。」彼らは黙っていたのです。この沈黙は、耳を傾ける沈黙ではありません。拒絶の沈黙でした。
この時の会堂は現代世界のようです。ロシアとウクライナ、ガザ侵略、アメリカによるベネズエラ攻撃。正義を語りながら人を貶め、命を後回しにする空気が世界を覆っています。暴力の現場だけでなく命を救う場所、善を行う場所にも罪とは、目には見えないけれども「沈黙」という形で狡猾な形で現れるのです。
その様子を見たイエス様は「怒って彼らを見回した」とあります。この怒りは、人を見下す怒りではありません。イエス様を救い主として受け入れない頑なさに向けられた怒りです。
ところで、今日は「成人の祝い」をする礼拝でもあります。今日、二十歳を迎えた皆さんがいます。成人になるということは、多くの責任を引き受けることになります。これまでは、意見を言わないで黙っていることも許されたでしょう。物事に関わらない、意見を言わない、距離を取る・・・それも選択です。
しかしイエス様は、「真ん中に立ちなさい」と招かれます。時に責任ある立場として、逃げずに、黙り続けずに、問いの前に立つ人生を歩んでほしい。聖書が教えている信仰とは、完璧な答えを持つことではありません。聖書の御言葉に問われることの前に立つ。神様の前に立ち続ける勇気なのです。しかし、それを阻んでいるのは「助けはいらない。自分の力でなんとかできる」という自分勝手な頑なな思いです。物事に関わらない、意見を言わない、距離を取ってやり過ごすという頑なな心です。

Ⅳ. 悲しまれる主

5節、イエス様は、彼らのかたくなな心を悲しまれた。ここに福音があります。イエス様は怒りました。しかし同時に、悲しまれます。それは愛の裏返しです。見放しているなら悲しまない。愛しているからこそ悲しまれるのです。イエス様は、怒って見捨てようとはされません。「手を伸ばしなさい」と語り、癒されました。しかし人々は悔い改めず、やがてイエス様を殺そうと相談し始めます。
この流れは、十字架へと向かいます。イエス様は、私たち罪人に向けられる神の怒りを引き受け、十字架にかかってくださいました。そして復活によって、新しい命と「真の安息」を与えてくださいました。このイエス様こそ、善を行い、命を救い、究極の安息を与える「安息日の主」です。沈黙ではなく、悔い改めと賛美の言葉をもって、この主を告白して歩みたいのです。
お祈りをいたします。