不思議な系図、奇妙な王
宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福⾳書第1章1~17節
2026年1⽉11⽇
Ⅰ.イエス・キリストの歴史
今朝の礼拝から、私がここに立つときにはマタイによる福音書の御言葉にご一緒に耳を傾けます。とってもワ
クワクしています。この福音書は、必ず私たちに新しい出来事を始める。私はそう信じています。
ただ、この福音書の冒頭は私たちとっては出鼻を挫くというか、なんともとっつきにくいものだとも思います。
私たちにはあまり馴染みの無い、カタカナの名前の羅列です。舌をかみそうです。もっと親しみやすいスタート
なら良かったのに、と思ってしまいます。
一方ではそのようなことも思ってしまいますが、他方で考えるのは、実はこれは深い神さまの愛に満ちたスタ
ートではないか、ということです。
1 節に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書いてあります。ここに「系図」と書いて
あります。確かにここに書かれているのは系図です。ただ、この言葉には別の意味も含まれていて、ここは「歴
史の書」と翻訳することもできます。そうすると、1 節は「アブラハムの子でありダビデの子であるイエス・キ
リストの歴史の書」と、この系図の部分だけではなくマタイによる福音書全体のタイトルのような響きがある、
と言えると思います。
私は、すごくいいなと思います。すてきなタイトルだと思います。イエス・キリストの歴史がここに始まる!そ
うであるとすれば、それはいかなる歴史なのか?これから読み始める福音書全体の内容を先取りすると、まず、
第1 章23 節です。クリスマスの出来事について、マタイによる福音書は「見よ、おとめが身ごもって男の子を
産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という旧約聖書の御言葉の成就だ、と注釈しています。インマヌエル。
「神は私たちと共におられる」という意味です。イエス、このお方は私たちと共にいてくださる神です。
そして一気にこの福音書の最後に至ると、主イエスご自身が弟子たちに約束なさっています。「私は世の終わり
まで、いつもあなたがたと共にいる。」そう、「共にいる」というキリストの力強い宣言でマタイによる福音書の始
まりと終わりとが囲い込まれているのです。
これがキリストの歴史です。いつも、世の終わりまで、キリストは私たちと共にいてくださいます。どこであろ
うともキリストは共にいてくださいます。キリストの歴史はそういう歴史です。どのようなときにも、どこにい
ようとも、私たちと共にいてくださる神の歴史です。
Ⅱ.私たちの歴史
これまで、皆さんお一人おひとりがいろいろな仕方で生きてこられました。キリストが共にいてくださる、神
は私たちと共にいてくださると言われたところでとても信じられない、という思いの中で生きてこられた方もい
ると思います。あるいは、これまでの私の人生を考えると、神さまが一緒におられたということになると逆に困
ってしまう、とても神さまのお見せできるような人生ではなかった、と思われる方もいるかもしれません。私の
歴史なんてとても他人様に見せられない。まして神さまになんて…。そういう失敗や後悔を隠し持っているかも
しれません。
私たちはそれぞれに生身の人間です。当たり前のことですが。完璧にはほど遠い。でも、それでも必死に何と
か生きてきました。そんな、それぞれの歴史があります。
私たちの歴史があります。
「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブをもうけ・・・」と書いてあります。この「もうける」という言
葉は、もっと率直に翻訳すれば「生む」という字です。
男性に「生む」と書くととても違和感を覚えるので、「もうけ」と翻訳したのでしょう。しかし、はっきりと「生
む」と翻訳した方が良かったのではないか、と指摘されることも多いのです。「アブラハムはイサクを生み」。確
かに、字にしてしまえばひと言です。しかしアブラハムと妻サラにイサクが生まれるまでには大きなドラマがあ
りました。アブラハムの歴史があり、サラの歴史がありました。もちろん、イサクがリベカと結婚してやがてヤ
コブを生むに至る歴史のドラマも大変なものです。
あるいは、11 節にはエコンヤという名前があります。
ユダ王国末期の王様です。この人は18 歳で王になりわずか3 ヶ月でバビロニアに攻め込まれ、都は陥落し、国
の要人たちはバビロンへ捕囚として連行されてしまった。エコンヤも捕囚の一人です。捕囚地で獄につながれ、惨
めに生き延びた。ところが何と37 年後に恩赦を与えられ、牢獄から解放されます。エコンヤにも、歴史がある。
この系図にある一人ひとりに歴史があるのです。
この2 週間で高座教会では三件の葬儀が行われています。本当に思います。どの葬儀にも歴史がある。逝去し
た方の歴史、家族の歴史、共に生きた教会の仲間の歴史・・・。そこにある悲しみは、一人ひとりが特別です。どの
葬儀も悲しいですし、淋しいです。私たち一人ひとりに歴史があるのです。系図にすると「エコンヤはシャルテ
ィルをもうけ」と僅かひと言ですが、そこに込められた生身の人間の歴史があるのです。
Ⅲ.不思議な系図
アブラハムは、すべての信じる者たちの父と呼ばれる偉大な信仰者です。しかし、彼の歴史には失敗も多かっ
たです。
3 節を見ると、「ユダはタマルによってペレツとゼラをもうけ」と、ここには珍しく母の名前も記録されていま
す。実はタマルは、もともとはユダの息子の妻でした。
しかしその夫は早くに死んでしまった。イスラエルではそういう場合は彼の弟の妻になります。しかし色々あっ
て、ユダはタマルを自分の下の息子の妻とすることを拒み、タマルを見殺しにしました。タマルはやがて娼婦の
ふりをしてユダに近づき、床を共にし、身ごもります。
こうして生まれたのがペレツとゼラです。
この系図に登場する母たちの名を追っていくと、次は5節に「サルモンはラハブによってボアズをもうけ」と書
かれている。ラハブは遊女です。更に「ボアズはルツによってオベドをもうけ」とありますが、このルツはイス
ラエル人とは究極的に犬猿の仲であったモアブ人の女性です。
そして、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と書かれています。この言葉だけでも異常です。ウ
リヤはダビデ王の忠臣でした。ところがダビデはその部下ウリヤが戦場で戦っている最中に、彼の妻を見初めて
自分の床に召し上げた。結局、ダビデはわざとウリヤを戦死させ、彼の妻を我が物にしてしまいます。彼女には
バト・シェバという名前がある。しかし、この系図には「ウリヤの妻」とだけ書かれています。ダビデの罪をえ
ぐり出すかのように「ウリヤの妻」と書くのです。
こうしてみると、あまり誇らしい系図とは言えないように思います。隠しておきたい歴史だらけです。私たち
も同じではないでしょうか。もしも私たちが「自分史」のようなものを作るとしたら、書けることと書けないこ
とがあります。それが私たちの歴史です。だから多少は格好付けて良い部分は誇張して書き、醜聞は隠しておく
ことになると思います。ところが聖書は、自分の息子の妻を見殺しにした上に娼婦として扱ったということや、
誇るべき忠臣の妻を奪い取った上に彼を殺したということまでも記録する。そういう歴史が私たちの歴史だ、と
いうのです。そんな私たちの歴史にイエス・キリストの歴史が突入してきました。イエス・キリストの歴史は、
私たちの罪の歴史を引き受けてくださった歴史なのです。
Ⅳ.奇妙な王
私は、こういう歴史を背負った系図について「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と言っ
て、ここに「ダビデ」という名前が書かれていることには大きな意味があると思うのです。
一つには、ウリヤとバト・シェバに対して犯した罪。そして、もう一つあります。ダビデは、王でした。実はイ
スラエルの歴史の中では最高の名君と言われる、イスラエル人にとっては王の中の王と言うべき存在です。「ダビ
デの子」と言えば、「真の王様」という意味です。主イエスはダビデの子として、私たちの王としてお生まれにな
りました。この方こそ真の王様だ、と聖書は言います。
但し、どういう王でいらっしゃるのかが問題です。人間は、いざ自分が支配できる側になるとあっという間に非
人間的な本性が現れます。ユダのように、ダビデのように。そういう私たちのドロドロしたものや後ろ暗いとこ
ろ、バカでダメでケチでつまらないところをこの王は引き受けてくださいました。私たちは、本当には自分で自
分の責任をとることさえできません。そんな私たちに代わって責任をとって、ご自分の命さえ差し出してくださ
った。主イエスはそういう王なのです。
私たちの歴史の中に王であるキリストが入ってきてくださいました。私たちの歴史をご自分の歴史として引き
受けてくださいました。そういう方が私たちといつまでも共にいてくださるのです。
私は、この系図は主イエスさまの自己紹介なのだと思います。だからこそ、新約聖書の最初にあるべきなので
す。私はあなたたちの歴史を共に歩む神だ、とキリストは宣言なさっているのです。私があなたたちの歴史を引
き受けよう、あなたたちの真の王として。キリストはそう言われます。
私たちは、今、真の王キリストを礼拝しています。これこそ私たちの最高の幸せなのです。

