南林間のキリスト者たちへ
宮井岳彦副牧師 説教要約
2026年1月18日
エズラ記4章1‐5節
ペトロの手紙一4章12‐19節
Ⅰ. 南林間のキリスト者たちへ
高座教会は1947年1月19日に最初の礼拝を献げました。その始まりとなったのは、厚木基地の従軍牧師ストレートから林間の文化人に贈られた一冊の小さな英訳聖書でした。これを手にした鷲沢與四二さんは仲間たちに熱く語った。「君、戦争をした事が大きな間違いであったのは、万人が認めて反省しているところだ。何故にこんな間違いを起こしたかがこの聖書を読んで初めてわかった。僕達はキリストを知らなかったからだ。僕達に『クリスチャニティ』がなかったからだ。これから日本が立ち上がって行くには、クリスチャニティを身につけるほかにない。これは大変な本だ。みんな読むべきである。これこそ本物だ。」これは、私たちが何度でも立ち帰って聞くべき言葉であると思います。
ここから始まった礼拝の歩みは今年で79年になります。これまでたくさんの人がここで神に礼拝を献げてきました。たくさんの人の信仰がここにあり、祈りがあり、賛美が献げられてきました。神はその一つひとつを覚えていてくださると信じています。
2026年になり、私たちはすでに三回の葬礼拝を献げました。この方たちもやはり、そういう礼拝の民の一員です。この地に生きた南林間のキリスト者たち。それは今ここで神に礼拝を献げている私たちも同じです。私たちも同じ神の民の一員。ここで神に礼拝を献げる「南林間のキリスト者たち」です。
このようにして私たちが共に祈りを献げ、賛美を献げ、礼拝を献げることが許されているというのは本当に幸せなことです。キリスト者として生きる幸いを決して無にしたくない、と心から願っています。
Ⅱ. 「キリスト者」、そして「ヤソ」
16節に「キリスト者」という言葉があります。口語訳聖書では同じところが「クリスチャン」と翻訳されていました。キリスト者、クリスチャン。今日では私たちの信仰を言いあらわすためにごく普通に使う言葉です。しかし意外なことに聖書にはたった三度しか登場しません。今日のところの他の二箇所はいずれも使徒言行録で、その内の一回は11:26に出てきます。「このアンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった」と書かれている。「キリスト者」というのは元は信じる者たちの自称ではなく、周囲の人たちにそう呼ばれた、ということになります。この言葉には元々どういうニュアンスがあったのか。続きを読むとすぐに教会が迫害されたという話になります。そういうところからも、恐らく元々「キリスト者」には侮蔑的な思いが込められていたと思います。最初に人々が「キリスト者」と教会の人たちを呼び始めたとき、彼らは思っていたのでしょう。「あいつらはおかしな教えを信じている。ローマ皇帝以外のイエス・キリストのことをわが主と呼んでいるが、不心得ではないか」と。
この頃の「キリスト者」という言葉のニュアンスは、恐らく、日本語の「ヤソ」という言い方とよく似ているのではないかと思います。
私の尊敬する加藤常昭牧師は、1956年に神学校を卒業して最初に金沢で伝道なさいました。金沢は浄土真宗が非常に強い土地柄です。その当時、土地の子どもたちは教会堂の前を通るときは目をつぶって鼻をつまんで走り抜けろと言われていた。教会堂の扉から毒気が出てくるから、と。子どもたちは教会に通う人たちをからかって歌ったそうです。「ヤソ教徒の弱虫は、はりつけ拝んで涙を流す。」教会は「ヤソ」と罵られ、「キリスト者」と軽蔑されてきたのです。
ペトロは言います。「愛する人たち、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません」(12節)。試練が降りかかるのは当然のことだ、と言っています。なぜなら、私たちがキリストのものだからです。イエスに属する者だからです。私たちがキリスト者であり、ヤソ教徒であるから。主イエスのお名前で呼ばれて侮られるのは当然だ、と言うのです。
私たちは、イエス・キリストこそまことの主でいらっしゃると信じています。神の国が来た、という主イエスの福音宣言を信じている。
ペトロは更に言います。「かえって、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです」(13節)。キリストのために苦しみを受けることを喜びなさい、と言います。キリストのために受ける苦しみ、それは例えば、私たちが伝道するために受ける苦しみや、隣人を愛するために覚える痛みのことです。伝道のために私たちが覚える苦しみはただの苦しみではなく、キリストの苦しみに与っていることに他ならない。そのことを喜んでほしい。そうペトロは言うのです。
Ⅲ. キリスト者・河井道
河井道さんというキリスト者の短い伝記を読みました。感動しました。すばらしいキリスト者です。河井さんは1877(M10)年に伊勢神宮の神官の家に生まれました。その後、伝道者になった叔父の影響でサラ・スミス宣教師と出会い、信仰に導かれます。河井さんのもっとも大きな働きは、1929(S4)年に恵泉女学園を創立したことです。最初は、生徒わずか10名からのスタート。徐々に学園は成長しました。しかし、日本は戦争の時代です。キリスト者河井道にとっても、キリスト信仰に基づいて建学された学園にとっても、非常に厳しい試練の時代を迎えることになります。
河井さんは、1941(S16)年3月に、日本のキリスト教会を代表する数人の人々と共に渡米し、平和のための祈りと話し合いをする使命を託されました。数ヶ月の旅を終え、帰国後、報告会を行った。会場では憲兵が見張りをしていた。会後に「河井だな」と声をかけられた。この時世に「平和」とは何事だ、と。取調室に連行された。「貴様は天皇陛下以外のイエス・キリストのことをわが主と呼んだが、不心得ではないか」と詰問された。しかし取り調べを受けているうちに、河井さんは、目の前にいる青年将校たちを、神さまのことを何も知らずに日曜学校に来ている生徒のように思えてきて、親しく丁寧に語りかけた。河井さんは、釈放されました。憲兵のひとりがポツリと、「東京へ行ったら先生のところに遊びに行こうかな」と言ったそうです。
キリスト者河井道は、ずっとそのようにして、戦時下の日本で信仰を曲げずに生き、また学園運営をしたそうです。
1944(S19)年になると、ついに男子は学徒動員され、恵泉女学園の生徒も学徒勤労動員された。河井さんは、作業着を着込んで生徒たちが動員された工場へ行き、毎朝始業前に中庭で生徒たちと礼拝を献げたそうです。周囲の工員たちはバカにし、はやし立てていた。彼女たちは互いに語り合った。「何と言われようと、わたしたちにはキリスト教のレッテルがはってある、わたしたちには、イエスさまと河井先生がついている」。そして、毎日毎日朝早くに集まって、軍歌ではなく賛美歌を歌い、礼拝を献げる少女たちを見る目は次第に変わっていったそうです。
Ⅳ. 主の救いにすがるしかない私たち
私たちはこの2026年を、神に遣わされた地でキリスト者として生きていきます。神に遣わされたところでキリスト者として、礼拝の民として私たちは生きていきます。
17節以下のところに、「裁き」ということが書かれています。ここのところを読むときに気をつけたいことがあります。間違っても「私たちには苦しいことがあるけれど、神はいずれ信仰を持たない世に復讐してくださる、私たちがやられた分はキッチリやり返してくださる」とは読まないようにしましょう。ペトロは「裁きが神の家から始まる時が来た」、「正しい人が辛うじて救われるのなら」と言っています。私たちは教会の内と外とを区別して、外に対する神の仕返しを期待するのではない。教会こそ最初に裁かれるし、私たちが辛うじて救われるのはキリストの憐れみ以外のなにものでもない。私たちはただただ謙遜に、へりくだって、主を愛し、主に仕え、隣人を愛し、隣人に仕えます。それはキリストが私たちのためにご自分を無にして、私たちを愛しぬいてくださったからです。キリストが最初に私たちを愛してくださり、私たちのためにすべてを献げ尽くしてくださったからです。だからこそ、私たちはキリストのお名前で「キリスト者」と呼ばれることをこそ誇るのです。


