小舟からのことば
和田一郎牧師 説教要約
2026年1月25日
詩編 91編1-16節
マルコによる福音書3章7-12節
Ⅰ. 湖の岸辺で
前回のマルコ3章1-6節で、イエス様が片手の萎えた人を癒された出来事が語られ、それを見たファリサイ派の人々は怒り、ヘロデ派の人々と「どうやってイエスを殺そうか」と相談を始めたのです。そして今日の箇所の冒頭、7節「イエスは弟子たちと共に湖の方へ退かれた。」イエス様は殺意が高まっている場所から退かれました。ところが今度はそこにおびただしい群衆が集まってきました。異邦人の町「よそ者」扱いされていた場所からも来たのです。
「イエスが多くの人を癒やされたので、病苦に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、押し寄せてきたからである」。ここでいう「病苦」とは、体の病だけではないでしょう。家庭の問題、将来への恐れ・・・。生きる自体が苦しい人たちがイエス様のもとに押し寄せたのです。
これは2000年前の話ではありません。今も、同じです。眠れない、仕事が苦しい、家族関係が壊れてしまった。介護や病気で疲れている。どう頑張っても先が見えない・・・。
そういう重荷を抱えた人たちが、言葉にならない叫びを抱いて生きています。
そして私たちもまた、ある時は「押し寄せる群衆」の一人です。余裕がなくて、ただ必死で「助けてください」と神にすがる思いで礼拝に来る時は、私たちは「押し寄せる群衆」の一人です。
Ⅱ. 「主人は誰か」私たちが一番譲れないもの
ここで、聖書は二つのグループの人間の姿を対照的に見せています。一方は、ファリサイ派とヘロデ派。イエス様を殺そうとする人たちです。もう一方には、イエス様に触れ、癒されたいと願う人たちです。
この違いはどこにあるのでしょうか。ファリサイ派やヘロデ派がイエスを憎んだ理由は、「自分の立場が脅かされる」と感じたからです。つまり彼らは、心の底でこう思ったのです。「人生の主人は自分だ」「この世界の中心は自分たちだ」。ところがイエス様は、「権威ある者」として語られます。イエス様の最初の言葉はこうでした。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)
これは、「あなたが主人として生きるのではなく、神を主人として生きなさい」という招きです。私たちも実生活で、ここが一番ぶつかります。
Ⅲ. 苦しみ悲しみの「大津波」が押し寄せる
9節「群衆に押しつぶされないためである」イエス様が押しつぶされそうになった。それほど人が押し寄せたのです。苦しみが一気に押し寄せる現実です。この押し迫る群衆を見て、イエス様は弟子たちに小舟を用意させ、それに乗り込まれました。舟に乗ったということは、岸から少し離れたということです。人々がイエス様に殺到して、思うままに触れることができないようにされた。ということです。
ここに、苦しみや悲しみを抱えて押し寄せてきた人々に対する、イエス様の姿勢が表れています。確かにイエス様は、触れればたちどころに病を癒す力を持っておられるお方です。あるいは岸に留まったまま、群衆を制御して、ご自分が危険にさらされないようにすることもできたでしょう。しかし、イエス様は、小舟に乗って群衆との間に距離を置かれました。
実は、群衆が集まって来た時に舟に乗り込む、ということは、イエス様にしばしば見られる行動です。つまり、群衆を前にして舟に乗るのは、舟の上から岸にいる人々へ、み言葉を語るためです。少し距離を取ることで、より多くの人に落ち着いて語りかけることができるからです。このようにイエス様は、み言葉を語り、神の救いへと導こうとされたのです。
イエス様に触れて、癒して頂こうとして押し寄せて来た人々は期待外れだったでしょう。イエス様の教えを聞いても、それで病気が治るわけではありません。イエス様がみ言葉を語り続けたのは、私たちに「情報」を渡すためではありません。私たちと本当に出会い、関係を結ぶためです。触れて癒されるだけなら表面的に終わります。問題が解決したら、イエス様が不要になってしまう。しかし主は、そうではない交わりに招かれたのです。
苦しい時だけの神ではなく、うまくいく時も、うまくいかない時も、神と共に生きる人生へ導こうとされたのです。そのイエス様の言葉は、十字架に裏打ちされた「命の言葉」です。主は、言葉だけでなく、命をも差し出して、私たちと関わってくださったのです。
Ⅳ. 汚れた霊との戦い
11-12節では、汚れた霊が叫びます。「あなたは神の子だ」。この汚れた霊は、イエス様が神の子だと、正しく認識していました。正しい知識をもっていたのです。当時の宗教指導者たちがイエス様の正体が分からずに、殺そうとしていたのとは対照的です。イエス様は神の子。それは正しい答えです。百点満点です。しかし、それは信仰告白ではありません。汚れた霊が自分を守るために叫んでいるのです。イエス様への信頼も愛もありません。私たちは、聖書の知識をたくさん持っているかもしれません。「イエスは神の子です」と正しく告白できるかもしれません。しかし、知識があるだけでは、汚れた霊と同じレベルに留まってしまうのです。イエス様が求めておられるのは、知識として知っていることを口にするのではなく、愛と信頼に基づいた人格的な応答です。愛と信頼に基づいた関係を作ろうとされているのです。
私たちは今日、知識としてイエスを知るだけでなく、心の底からこのお方に信頼し、その権威に従っているでしょうか。
まとめ
イエス様は、ご自身の宣教に対する熱狂的な反応(群衆の殺到と悪霊の叫び)に、どのように対処されたでしょうか?
9節には「群衆が押し寄せて来ないように、小舟を用意しておくよう言われた」とあり、12節には「ご自分のことを知らせないよう、彼らを厳しく戒められた」とある通りです。
イエス様は熱狂をただ受け入れるのではなく、意図的に距離を置き、沈黙を命じられました。イエス様を、自分たちの都合のよい「便利屋」として利用しようとする群衆の熱狂に飲み込まれることを拒まれました。また、愛と従順の伴わない「正しい知識」だけの告白も拒絶されました。イエス様が求めておられるのは、表面的な人気や知識ではなく、ご自身の主権を認め、十字架の主として従う真の信仰です。
ですから私たちも今日、この出来事の前に立って、自分自身に問いかけたいのです。私は、イエス様を「必要な時だけ助けてくれる方」として求めているでしょうか。それとも、うまくいく時も、うまくいかない時も、人生の主としてお迎えしているでしょうか。群衆は「触れれば癒される」と願って押し寄せました。汚れた霊は「あなたは神の子だ」と叫びました。しかし主は、その熱狂も、その言葉も、そのまま受け取られませんでした。主が望まれたのは、私たちが主と共に生きる者となることです。都合のよい救いではなく、十字架の愛に捕らえられた救い。それこそが、イエス様が招いておられる生き方です。そして感謝すべきことに、主は今日も、私たちから距離を取って遠ざかる方ではありません。
むしろ、混乱のただ中にいる私たちに、語りかけるために「舟に乗って」くださる方です。
押しつぶされそうな苦しみの中でも、イエス様の言葉は届きます。「わたしのもとに来なさい」と呼びかける声は消えていません。主は、私たちが主を見失わないために、沈黙を命じ、距離を置き、そして御言葉によって導かれます。それは私たちが「癒しだけ」を求めてイエス様を通り過ぎてしまわないために。私たちが「知っているだけ」で終わり、イエス様と出会わないままにならないために。今週も私たちは、それぞれの場所へ遣わされていきます。現実の中では、病や不安、重い責任や葛藤が、また押し寄せてくるでしょう。しかしその時、私たちは思い出したいのです。イエス様は、群衆に押しつぶされそうになりながらも、私たちを見捨てず、言葉を語り、十字架へ向かわれたお方です。この方こそ、私たちの救い主、そして人生の主です。一時的な助けではなく、イエス様と共に歩む信仰を選び取ることができますように今週も歩んでまいりましょう。
お祈りをいたします。


