ご自分のそばに

和田一郎牧師 説教要約
2026年2月1日
エレミヤ書1章4-10節
マルコによる福音書 3章13-19節

Ⅰ. 使徒十二人の任命

イエス様には、十二人の弟子がいたことはよく知られています。しかし、実際にはもっと多くの弟子たちがいたのです。3章7節以下には、「おびただしい群衆」がイエスに従って来たことが語られていました。つまり、イエス様の周りには、十二人どころではない数の人々がいたのです。本日の箇所では、その多くの弟子たちの中から十二人を選び出し「使徒」と名付けられたという出来事です。なぜイエス様は十二人を選ばれたのでしょうか。並行箇所マタイ9:38節「群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」イエス様は人々が「羊飼いのいない羊のように弱り果てていた」のを憐れんだのです。霊的な導き手を失っていたのです。イエス様の弟子という群れにつながっていない人々は方向を見失い、弱り果てていました。そこでイエス様は、群れを導くために、人々のところへ遣わす者として十二人を選ばれたのです。
マルコ3:14にはこうあります。「彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わし、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」
まず最初に語られているのは、「宣教に遣わす」ことでも、「悪霊を追い出す」ことでもありません。「自分のそばに置くため」です。弟子たちを働かせる前に、まず「共にいる」ことを選ばれました。一緒に過ごし、同じ道を歩み、同じ時間を分かち合う。そこから始まるのです。

Ⅱ. 小グループ

13節には「イエスは十二人を任命し」とあります。しかし、原文を見ますと、ここで使われている言葉は、「任命する」という以外に「造る」という意味を持つ言葉です。直訳すれば、「イエスは十二人を造った」となります。
 イエス様は、もともと能力のある者を見出して使徒にしたのではありません。イエス様が、彼らを使徒として造り上げていかれたのです。
神の国の福音を宣べ伝える力も、悪霊を追い出す権能も、それらはすべてイエス様によって与えられ、イエス様と共に過ごすことによって造り出されたものです。つまり、十二人の使徒の任命とは、彼らが新しい存在として造られていく出発点だったのです。「造る」という言葉は、そのことを的確に言い表しています。
ところで、なぜイエス様は、これほど多くの人々の中から、わずか十二人を選ばれたのでしょうか。大群衆の中では、一人ひとりの人生に深く関わることはできません。しかし、十二人という小さな単位であれば、食事を共にし、旅を共にし、失敗や弱さをさらけ出し、質問し、語り合うことができます。信仰は情報ではなく関係の中で育つものです。十二人の弟子たちは決して優等生ではなく、それぞれが問題を抱えていました。しかし、小さな共同体の中で、ぶつかり合い、赦し合い、忍耐を学び、互いに整えられていきました。小グループは、人を整える場所になります。人が練り上げられる場所です。大人数の中では人は変わりにくい。
「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。十二人は小グループの中で練り上げられ、教会の原型となり世界へと広がりました。

Ⅲ. 北の大地の弟子たち

ここで、私は最近読んだ一冊の本を思い起こします。明治のはじめに北海道に設立された札幌農学校の物語です。「少年よ大志をいだけ」という言葉で知られるクラーク博士の話です。当時、北海道はまだ日本の一部としての認識が薄く、開拓と発展が急務でした。明治政府から、その任にあたる人物として、黒田清隆が派遣されます。彼は薩摩藩出身の勇敢な武将として知られていますが、彼は有能な人材を育てる必要を感じ、アメリカから教育者を招くことを決断しました。それが、マサチューセッツ州立農科大学の学長であったクラーク博士でした。クラーク博士は、敬虔なキリスト者であり、南北戦争に出征した軍人としても、州立大学を設立して運営できる教育者としても優れた人物でした。札幌農学校の学生たちは、多くが元武士の士族で、時代の変化の中で生きる目標を失い、生活も荒れていました。
その青年たちに、どのような道徳教育を施すべきか。黒田清隆が抱えていた大きな課題でした。それに対してクラーク博士は、「それはキリスト教を学ぶことだ。聖書教育しかない」と答えます。しかし、札幌農学校は国が建てた官立学校ですから宗教教育はできません。しかし、博士を信頼した黒田は、学内で聖書を使うことを認めたのです。「ただし表向きにはしないでほしい」と言われていたそうです。
そこからクラーク博士は、授業の初めには聖書について講義していました。人々に慕われ影響を与える先生になっていました。農学校を離れる時が近づくと「イエスを信じる者の誓約」という文章を書きます。クラーク博士は牧師ではないので洗礼を授けることはできません。しかし、「我はキリストの忠実な弟子となり、その教えを堅く守らんと、神に誓い、かつ互いに誓う」という誓約に、札幌農学校一期生16人全員が署名したのです。まさにイエス・キリストと寝食を共にして成長していった十二人の使徒たちのように、クラーク博士と寝食を共にしが十六人は、札幌バンドと呼ばれて日本のキリスト教宣教の一翼を担う源流となりました。内村鑑三、新渡戸稲造といった日本のキリスト教宣教に大きな影響を与える人物は、二期生なのでクラーク博士とは会っていませんが、この誓約に署名した先輩から、教えを受けて、キリスト教の信仰をこの札幌農学校時代にもったのです。

Ⅳ. イエスの祈りがあった小グループ

13節には、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられた」とあります。山は、イエス様にとって祈りの場所でした。ルカ福音書では、イエス様が一晩中祈られた後に十二人を選ばれたことが語られています。つまり、一二人の弟子たちは祈られていたのです。「これと思う人々」とは、「優秀な人」「見込みのある人」という意味ではありません。原文では、「イエス様が望まれた者」という意味です。選びの根拠は、ただイエス様のご意志にあります。祈りの中にあります。このことは、「任命する」ではなく「造る」という言葉と深く結びついています。イエス様が祈り、選び、造り、力を与えられた。それが使徒なのです。
この十二人の選びは、今日の高座教会にもはっきりとしたメッセージを語っています。
礼拝という大きな集まりは大切です。しかし、それだけでは足りません。小グループがあってこそ、人は名前で呼ばれ、祈られ、覚えられます。高座教会には、祈り会74グループ、家庭集会5グループ、ニーズ型21グループ、合わせて約100の小グループがあります。さらに、教会学校、スカウト活動、聖歌隊、掃除や受付など50〜60の奉仕グループがあります。合計すると、150〜160の小グループによって教会は形づくられています。
小グループは、「相互牧会」の場です。互いに祈り、支え合い、励まし合う。イエス様が十二人を選ばれたように、私たちもこの交わりの中で造られていくのです。

まとめ

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ福音書15章5節)。
枝である私たちに求められているのは、自分の力で実を結ぶことではありません。ただ、ぶどうの木であるイエス様につながり続けることです。教会に繋がること、小グループに繋がること、それが、イエス様との関係が確かなものとなり、霊性が整えられ、豊かな実を結ぶ喜びに繋がります。イエス様は、今も私たちを祈りの中で選び、交わりの中で造り続けておられます。その恵みに信頼しつつ、共に歩んでまいりましょう。
お祈りをいたします。