新しい「私たち」を発見する


宮井岳彦副牧師 説教要約
2026年2月15日
エレミヤ書12章10‐13節
ペトロの手紙一 5章1‐7節

Ⅰ. 礼拝で起きている出来事

私が初めて行った教会は、高座教会の姉妹教会である希望が丘教会です。幼稚園卒園後に相模原へ引っ越しをし、落ち着くまでいくつかの教会へ行きましたが、いちばん長く通ったのは相模原南教会。小学5年生から高座教会へ通い出し、その後、洗礼を受けました。神学校に行った後も、神学生、伝道師、牧師としていくつかの教会で信仰生活を送りました。私は教会が好きです。そして、他のどこでもなく教会で、イエス・キリストと出会ったと信じています。
教会生活の中心は礼拝です。皆で共にキリストを呼び求めて祈ること。キリストを賛美すること。キリストの言葉に聞くこと。私たちは、そのようにしてキリストを礼拝します。
私が高座教会の何を好きかと言えば、いちばんには、何と言っても礼拝です。その思いは、かつて私が学生としてこの教会に来ていたときにも、そして今も、変わることがありません。
私は、礼拝は完全な時間であり、完全な空間であると信じています。もちろん、人間がすることですから欠けを見つけようと思えばいくらでもあるでしょう。あれが足りない、こんな失敗がある、と……。それでも、そんな不完全で、小さな私たちの営みを通して、神は今日私たちと出会ってくださいます。ここで、この礼拝で。私たちはキリストの言葉を聞き、キリストに祈ります。今、ここで、キリストが私たちと出会ってくださる。だから、その一点で、ここは完全な空間で、今は完全な時間です。
キリストは他でもなく、ご自分の教会の小さな営みを通してご自身を現すことを選んでくださいました。ですから、私たちがキリストの御前ですることは、ただただへりくだり、キリストを愛することだけなのではないでしょうか。
1節に「キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者」と書いてあります。この手紙にはペトロの名が冠されていますが、こういうところを読むとやっぱり他でもなく「ペトロの手紙」だなと思います。ペトロの主イエスとの出会いの経験が色濃く反映している言葉だと思います。
ペトロは主イエスの弟子として、主と共に旅をし、共に歩みました。そんな旅の中で主イエスはペトロたちに繰り返しおっしゃっていました。ご自分が必ず苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と。主は、苦しみをお受けになることはご自分がメシアであることのしるしだ、とおっしゃいました。ペトロは主イエスの御言葉を思い出しながらこの手紙をしたためたに違いない。彼は言うのです。「私はキリストの受難の証人だ、苦しみを受けて殺されたこの方こそが私たちのメシア、すなわち私たちの真の王さまだ」、と。
更に、ペトロは自分が「やがて現れる栄光にあずかる者」だとも言っています。
王であれ皇帝であれ、どこかの戦いに大勝利を治める。そうすると、都に戻ってきたときには栄光に包まれた凱旋行進をするでしょう。恐らく、この「やがて現れる栄光」のイメージはそういうことです。苦しみをお受けになったイエスが真の王・メシアとして戦いに勝利し、私たちのところへ凱旋(がいせん)なさる。私たちはキリストの栄光を仰ぐ。キリストを礼拝するとき、私たちはキリストの凱旋の栄光を先取りして見せていただいている。それが、今日、この高座教会の礼拝で起こっている事実なのです。私たちの営みを通して、キリストの栄光がこの世界に表されているのです。

Ⅱ. 教会の意志決定

そのような営みをしている私たちは、しかし、当然ですがただの人間です。教会はただの人間の集団です。礼拝の中で役割を頂いている牧師も、長老も、ただの人間に過ぎません。甚(はなは)だ不完全な存在です。
今日私たちに与えられている聖書の御言葉には「長老」とか「若い人たち」とか書かれています。私たちの教会にもいろいろな年代の人がいます。いろいろな立場の人がいます。信仰生活の長さも、人によって全然違います。そういう私たちが一つの教会として生きていくというのは何を意味するのか。ただの人間の集団に過ぎない私たち、もっとちゃんと言えば罪人の集団である私たちがキリスト教会としてどのようにして礼拝を献げ、教会としての歩みを定めていくのか。今日の聖書の御言葉はそういう事を問うているのだと思います。
私たちの教会にも「長老」がいます。教会員の中から選ばれた代表者である長老たちが話し合い、教会の意志決定をします。例えば、私がこの場に立って礼拝でお話をするとき、今は「ペトロの手紙一」を読んでいますが、次回で終わる予定です。その次に私たちは聖書のどの書に耳を傾けるのか。それは牧師がひとりで決めるのではありません。長老たちに審議していただきます。あるいは、教会の建物に不具合があるとなれば、どこからどういう順番でどのように必要な工事を行っていくのか。それも長老たちが話し合って決めます。私たちの教会はそのように意志決定する。
そう聞くと、「どこでも同じだな」と思われるかもしれません。大和市も、市民が選んだ議員が議会で意志決定します。自治会やPTAでも、選ばれた役員が話し合って決めるでしょう。学校でも生徒会で意志決定するかもしれません。全員で全部を決めるのではなく、何らかの方法で選ばれた代表者が話し合って決める。間接民主制、ということになると思います。
一方から言うと、私たちの教会も同じです。教会の代表である長老を選び、意志決定を託します。しかし違うところもあります。私たちの中心にあるのは「民意」ではありません。神さまです。教会は私たちのしたいことや良いと思うことが中心にあるのではなく、神さまが中心にいらっしゃる場所です。そうであるならば、「神が中心におられる」とは何を意味しているのでしょうか?

Ⅲ. 赦された罪人の共同体として

先ほどの1節で、ペトロは、自分がキリストの受難の証人だと言っていました。しかし、よくよく考えてみると、この言葉は変です。主イエスがご自分がこれから必ず苦しみを受けて殺され、復活することになっているとおっしゃったとき、ペトロは全力で否定しました。やがてその時が訪れ、主が捕らえられ、裁かれているとき、ペトロは三度にもわたって「イエスを知らない」と繰り返し言いました。イエスが十字架にかけられたとき、ペトロはそこにはいませんでした。それでも「キリストの受難の証人」と言えるのでしょうか?むしろ、キリストの受難の証人としては甚だ不適格な人物です。
そんなペトロは、教会の長老たちに一体何と言ったのか。「神の羊の群れを牧しなさい」(2節)。この「神の羊の群れを牧す」という言葉は、実は、かつてペトロ自身が主イエスから命じられたことです。主が十字架にかけられ、復活した後、ペトロは故郷ガリラヤに帰り、湖で漁をしていました。そこに主が来てくださった。そして、ペトロにお尋ねになります。「あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」。ペトロは答えます。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。三度繰り返して、主はペトロに尋ねました。三度繰り返して、ペトロが主を知らないと言ったのをなぞるようにして。そして、その度に、キリストはペトロに繰り返しおっしゃったのです。「私の羊を飼いなさい」と。
神の羊の群れを牧すというのは、「私はキリストを捨てた人間だ」と思い知らされることです。キリストの受難の証人というのは、こんな私にもキリストは出会ってくださった、という救いの証人ということです。そして、主の羊を養う者に問われるのはキリストへの愛だけなのです。
5節にはこのように書かれています。「同じように、若い人たち、長老たちに従いなさい」。ここに「若い人たち」が出てくる。年齢が若いという事でもあるでしょうし、信仰の歴史が若いという意味でもあると思います。若い人には従うことを求めています。3節では、長老に「群れの模範になりなさい」と命じていました。長老が群れの模範になるというのは、赦された罪人としてキリストを愛する者のひな形になる、ということだと思います。若い人が長老に従うとは、長老を真似て一人の罪人としてキリストを愛するということではないでしょうか。
そして更に言います。「皆互いに謙遜を身につけなさい」。皆、です。長老も若い人も、男も女も、どんな仕事をしていても、「皆互いに謙遜を身につけなさい」。この「謙遜」という言葉を調べてみるととても面白い興味深いもので、当時のギリシア世界では謙遜は決して美徳ではなかったそうです。むしろ、卑(いや)しいとか向上心がないとか、そういう響きを持っていた。しかし、キリスト教会はそうではなかった。互いに謙遜を身につける私たちとして生きた。
この「身につける」というのは、エプロンを身に着けるという意味で使う言葉だそうです。この当時の社会でエプロンを着ける仕事は、奴隷の仕事です。互いに相手の奴隷になって仕え合え、と言っている。私たちはやがて現れるキリストの栄光のために、奴隷として互いに仕える。キリストの凱旋に奉仕し、互いのキリストとの出会いのために奉仕するのです。互いに仕え合い、共に礼拝を献げるところに教会が生まれるのです。
私たちは、キリストを捨てた惨めな罪人。そんな私たちにキリストが出会ってくださいます。礼拝で。礼拝を献げる私たちを「新しい私たち」にしてくださる。そういうキリストとの出会いの出来事が、今ここで起きているのです。