種をまく人のたとえ
和田一郎牧師 説教要約
2026年3月22日
エレミヤ書19章1-5節、10-15節
マルコによる福音書4章1-20節
Ⅰ. 譬え話は心を耕すために
マルコ福音書4章には、いくつかの「たとえ話」がまとめられています。私たちはふつう、「たとえ話」というと、難しいことを分かりやすく伝えるためのものだと思います。けれども、今日の箇所をよく読むと、決して「分かりやすい」とは言いがたい話です。たとえ話は必ずしも分かりやすくするため、だけではないのです。11節と12節で、イエスさまご自身がその理由を語っておられます。「…『彼らは見るには見るが、認めず 聞くには聞くが、悟らず立ち帰って赦されることがない』ためである。」と言われているのです。
少し不思議に感じる言葉ですが、ここで大切なのは、たとえ話を聞いたからといって、誰もがすぐに理解できるわけではない、ということです。むしろ、「見ているのに気づかない」「聞いているのに分からない」ということも起こるのだと言われたのです。イエスさまのたとえ話は、単なる説明ではなく、聞く人の心に問いを投げかける「謎かけ」のようです。すぐに答えが分かる話ではなく「これはどういう意味だろう」と考えさせられるのです。
旧約聖書の預言者たちも似たような言動がありました。神は預言者エレミヤに、陶器師の所へ行って土器の瓶を買いに行かせ、その瓶を人々の前で砕くと、人々は驚きました。そこで「器が砕かれると、二度と直すことができないように、私はこの民とこの都を砕く」(エレ9:11)と預言を語るのです。旧約の預言者は「いったい何をしているのか?」と問わざるを得ない行動をします。そこに神の問いが生まれるのです。たとえ話は単なる「説明」ではありません。聞く人は「これは何の話なのか」と考えさせられます。聞く人の思考を止め、問いを生み出すのです。
Ⅱ. 私たちの心にはさまざまな「土地」がある
そこで、今日のたとえ話です。イエス様はこのたとえの中で、四つの土地を語られました。道端、石地、茨の中、そして良い土地です。蒔かれた「種」とは聖書の御言葉のことです。
《道端・・・御言葉が入らない心》
最初に語られるのは道端です。そこに落ちた種は土の中に入らず、鳥が来て食べてしまいました。イエス様はこれを、御言葉を聞いても、すぐにサタンが来て奪い去る姿だと語られます。耳では聞いているのです。礼拝に出て、聖書を読み、説教を聞いても、心の奥にまで入っていかない。聞いたそばから流れていってしまう。そういうことが私たちにはあります。道端とは無関心な心とも言えます。忙しさの中で、疲れの中で、御言葉に心を動かされなくなっている。それもまた、道端です。
《石だらけの土・・・一時的な信仰》
次に語られるのは石地です。土が浅いので、種はすぐ芽を出します。しかし根がないため、日が昇ると焼けて枯れてしまいます。イエス様はこれを、御言葉を喜んで受け入れるけれど、根がないので長続きせず、困難に出会うとつまずいてしまう姿として語られました。最初は聖書の言葉に励(はげ)まされ、「これからは信仰をもって生きよう」と思うこともある。しかしその信仰が、生活の深いところまで根を下ろしていないと、試練に会った時にしおれてしまうのです。
苦しい時にも、なお神に結ばれていることが大切です。石地の問題は、芽が出ないことではありません。根が伸びないことです。
《茨の中・・・この世の思い煩いと欲望》
三つ目は茨の中です。種は芽を出しても、茨が伸びてきてふさいでしまい、実を結ぶことができません。イエス様はこれを、「この世の思い煩い、富の誘惑、その他いろいろな欲望」が入り込んで、御言葉を覆(おお)いふさいでしまう姿だと語られます。これは現代の私たちに、とても身近な問題です。生活の心配、将来への不安、お金の問題、人間関係、健康の悩み、仕事の責任、快適さへの執着。こうしたものが心をいっぱいにしてしまう時、御言葉が育つ余地がなくなってしまいます。ここで大事なのは、茨は「悪いこと」だけではないということです。思い煩いの多くは、現実の生活の中で本当に切実なものです。仕事も家族も生活も大事です。しかし、それらが心を占領してしまうのです。信仰は「余裕がある時に考えるもの」ではなく、忙しさや不安のただ中でこそ、意識して御言葉に場所を明け渡すことなのです。
《良い土地・・御言葉を聞いて受け入れる心》
最後に、良い土地が語られます。そこに落ちた種は芽生え、育ち、三十倍、六十倍、百倍の実を結びました。主イエスは、これを御言葉を聞いて受け入れ、実を結ぶ人たちだと語られます。
ここで私たちは、少しためらいを覚えるかもしれません。「果たして自分は良い土地だろうか」と。道端や石地や茨なら、思い当たる。しかし良い土地だとはとても言えない。そう感じるのではないでしょうか。実際、その通りだと思います。私たちは自分の力で良い土地になることはできません。頑張って心を整え、努力して立派な信仰者になろうとしても、それだけでは限界があります。けれどもこのたとえの希望は、私たちが最初から良い土地であることではなく、イエス様がなお種を蒔いてくださることにあります。
主は、道端のような心にも、石地のような心にも、茨だらけの心にも、御言葉を蒔いてくださるのです。そしてその御言葉によって、私たちの心を少しずつ耕し、柔らかくし、受け入れる土地へと変えてくださいます。良い土地とは、生まれつきそういう人のことではありません。主に耕された心のことです。
Ⅲ. あの人ではなく、私の話
ですから、このたとえは単純に「四種類の人間がいます」という分類の話ではありません。むしろ、一人の人間の心の中に、道端も、石地も、茨もあるのです。日によって、時によって、私たちの心は変わります。ある時には無関心になり、ある時には浅く喜び、ある時には思い煩いに埋もれます。そういう意味で、このたとえはまことに厳しい言葉です。私たちはこの御言葉の前で、自分の現実を見せられます。しかし同時に、それは希望の言葉でもあります。なぜならイエス様は、そのような私たちを見捨てず、なお語り続け、なお御言葉という種を蒔き続けてくださるからです。
このたとえから今を生きる私たちは、問われているのです。心を揺さぶられる必要があるのです。それは、御言葉を聞くとは、自分の心の状態を主の前に差し出すことだということです。「私は今、道端のように固くなっていないか」「私は表面的な信仰にとどまっていないか」「私はこの世の思い煩いに心を覆われていないか」
そのように問われる時、このたとえは「あの人の話」ではなく、「私の話」となります。そしてその時初めて、私たちは本当に御言葉を聞き始めるのです。けれども、そこで終わりではありません。主は、私たちの頑(かたく)なさをご存じのうえで、なお語ってくださいます。なお、耕してくださいます。なお、私たちの中に実りを生み出そうとしてくださいます。三十倍、六十倍、百倍という豊かな実りは、私たちの能力の結果ではなく、神の言葉の力の結果です。
Ⅳ. 主は私たちを良い土地へと変えてくださる
このたとえを聞くとき、私たちは自分の中にある道端や石地や茨の姿に気づかされます。御言葉が入っていかないことがあります。喜んでも続かないことがあります。この世の思い煩いに心がふさがれてしまうこともあります。そうであるなら、私たちは「自分は良い土地ではない」と思わざるを得ません。しかし主イエスは、そのような私たちを見て、あきらめてしまわれる方ではありません。主は、今もなお、私たちの心に御言葉の種を蒔き続けておられます。道端のような心にも、石地のような心にも、茨に覆われた心にも、主は変わることなく語りかけてくださるのです。
そして主は、ただ種を蒔くだけでなく、私たちの心を耕してくださいます。かたくなな心をほぐし、浅い心に根を与え、茨を取り除いてくださいます。少しずつ、しかし確かに、私たちを良い土地へと変えてくださるのです。ですから私たちの希望は、自分が立派な良い土地であることにあるのではありません。主が私たちを良い土地にしてくださる、その恵みにあるのです。今の自分がどのような状態であっても、主はなお働いておられます。御言葉は無駄になることはありません。主が育ててくださるなら、私たちの人生にも、三十倍、六十倍、百倍の実りが与えられるのです。イエス様は、私たちを良い土地へと変えてくださる。この主に信頼して、御言葉に生きる歩みへと、今日も遣(つか)わされていきましょう。
お祈りします。


