神の家に帰るとき
<春の歓迎礼拝>
和田一郎牧師 説教要約
2026年4月12日
ルカによる福音書 15章11–24節
Ⅰ. 相手の心に近づく
今日は歓迎礼拝です。はじめて教会に来る方、久しぶりに来る方を歓迎する礼拝です。
2025年の大リーグ、ワールドシリーズで最優秀選手賞(MVP)の山本由伸投手はスピーチをしました。彼は最初に「ブエナス・タルデス」(スペイン語:こんにちは!)。英語で “Losing isn't an option!”(負けるという選択肢はない!)、最後に日本語で「ありがとう」とスピーチを締めくくりました。1分に満たない短いスピーチでしたが、スペイン語、英語、日本語が盛り込まれたその内容は彼の思いが現れていました。チームの本拠地ロサンゼルスは、人口の半分をスペイン語を話すラティーノ(中南米にルーツを持つ人々)が占めています。この一年間、オンラインで英会話とスペイン語も学んでいました。それはチームメイトとのコミュニケーションのためでもあり、アメリカ社会に広がるラティーノの存在を意識していたからです。相手の言葉で、相手の心に近づこうとしたのです。つまり彼は「チームに入った」だけではなく、「チームの一員になろう」としました。
人は「所属」しても、まだ仲間とは言えない、血縁関係があっても家族とは言えないことがありますね。仲間となり家族になるとは、相手の心に近づくことなのです。
Ⅱ. 神は、私たちの側に来てくださった
しかし、聖書が語る救いはその逆です。私たちが神に近づいたのではなく、神様が私たちの側に来てくださったのです。人間は、自分の力で神を理解することはできません。神様の思いも、神様の言葉も、本来は私たちの理解を超えています。では神はどうされたのでしょうか。神様は「人間の言葉」で語られました。その象徴がイエス・キリストです。
神様は天のままの姿で遠くから語るのではなく、人となってこの世界に来られました。悲しむ人と共に涙し、苦しむ人と共に歩み、私たちの弱さをその身に引き受けてくださいました。まさに、相手の言葉を学び、相手の中に入っていくように、神は人となって私たちの中に来てくださったのです。それは何のためでしょうか。私たちを「理解するため」だけではありません。私たちを「家族にするため」です。
イエス様は言われました。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:34–35)
神は、遠い存在としてではなく、家族として共に生きるために来てくださったのです。
Ⅲ. 放蕩息子のたとえ
今日の聖書箇所には、「神様とはどんなお方か?」たいへん深く描かれています。放蕩息子は父のもとから家出をして、自分の思いのままに生きました。財産を使い果たし、すべてを失い、ついには食べるものにも困るようになります。まさに「神から遠く離れた人間」の姿です。彼はそこでようやく気づきます。「父のもとに帰ろう」と。しかし彼の心には確信はありません。「もう息子とは呼ばれないだろう」そのような思いで帰っていくのです。
この放蕩息子に、私たちの姿があります。私たちもまた「自分が教会に行くのは相応しくない。だから行かない」と考えてしまうのです。しかし、このたとえの中心は息子ではなく父です。聖書はこう語ります。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)ここで大切なのは、「まだ遠くにいるのに、見つけた」ということです。なぜ父は、そんなに早く息子に気づいたのでしょうか。それは、父が毎日のように外を見ていたからです。帰ってくるはずのない息子を、それでも「帰ってくる」と信じて待ち続けていたのです。父は息子の失敗を知っていました。息子が自分勝手に家を出ていったことも覚えています。それでもなお、父は心の中でこう思い続けていたのです。「必ず帰ってくる」と。
そして、ただ待っていただけではありません。姿が見えた瞬間、父は走り出しました。当時、家の主人が人前で走るというのは、威厳を捨てる行為でした。しかし父はそんなことを一切気にしません。息子のもとへ駆け寄り、抱きしめ、口づけします。息子は言いかけます。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません・・・」しかし父は、その言葉を最後まで言わせません。すぐにしもべたちに命じて、最上の衣服を着せ、指輪をはめ、履物を履かせ、祝宴を開くのです。ここには「条件」が一つもありません。「反省したから受け入れる」でもなければ、「償いをしたら家族に戻る」でもありません。ただ「帰ってきた」それだけです。ここに神の心が現れています。
私たちは思います。「自分なんて、そんなに立派じゃありません」「神様に受け入れられる条件など満たしていません。だから教会には行かないのです」と。しかし神様は違います。私たちがまだ遠くにいるときから、帰ってくることを待ち、見つけた瞬間に走り寄り、無条件で抱きしめてくださる方です。神の愛は「ふさわしい人を選ぶ愛」ではありません。「帰ってくる人を喜ぶ愛」です。そしてさらに大切なことがあります。父は「いつか帰ってくるかもしれない」と半信半疑で待っていたのではありません。「この子は帰ってくる」と信じて待っていたのです。それは、息子の力を信じていたからではありません。父の愛が、息子を必ず引き戻すと信じていたからです。
同じように神は、あなたのことをあきらめていません。どれほど遠くにいるように思えても、どれほど「ふさわしくない」と感じていても、神は今日もあなたを待っておられます。そしてあなたが一歩でも神に向かうとき、神はすでに走り出しておられるのです。これが「神の家族」の姿です。それが「教会」です。それは努力して入る場所ではなく、帰ってきた者を喜んで迎える場所なのです。
Ⅳ. 神の家族とは何か
では私たちはどのような存在なのでしょうか。聖書は、私たちを「他国人」「寄留者」と表現します。つまり、本来の居場所にいない存在です。神を知らず、どこかで孤独を抱えながら生きている存在です。教会も、最初は敷居が高く感じるかもしれません。「自分はふさわしくないのではないか」「真面目で正しくないと入れないのではないか」と思うかもしれません。しかし、それは違います。聖書は語ります。
「ですから、あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。」(エフェソ2:19)
これは「立派になったら家族になる」という意味ではありません。「聖なる民」とは、自分が聖であるのではなく、神様が聖なる方なので、それに属する者が「聖」とされるということです。神が受け入れてくださったから「聖なる神の家族」なのです。信仰とは、自分を整えて神に近づくことではありません。神に受け入れられることです。そして教会とは「宗教の集まり」ではありません。神の家族です。年齢も、背景も、性格も違う人々が、神の愛によって一つにされる場所、それが教会です。
Ⅴ. 神の家に帰る喜び
山本選手は、相手の言葉を用いて、相手の心に近づこうとしました。チームの一員となって心を一つにしたい、という願いがありました。
しかし、キリストはそれ以上のことをしてくださいました。私たちが神様に近づこうとする前に、神様のほうから私たちに近づいてくださったのです。私たちと「神の家族」となるために、地上に来られ十字架にかかられました。神様は遠くから呼びかける方ではなく、私たちのただ中に来てくださる方です。
教会に来るということは、宗教に入ることではありません。それは神の家族として生きることです。聖書ははっきりと宣言しています。「あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、神の家族なのです」と。これは、私たちに向けられた力強い招きの言葉です。この招きに応えるとき、私たちは初めて知るのです。自分には帰る場所があること、受け入れられていること、そして神の家族として生きる喜びが、すでに備えられているということです。
今日は歓迎礼拝です。初めて教会に来た方、久しぶりの方を心より歓迎いたします。偶然ではなく、神様がお一人お一人のことを見てくださって、今日、高座教会に神様が招いてくださったことに、心から感謝申し上げます。
お祈りをいたします。


