死んだ者だけが復活する
宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福⾳書 3章13~17節
2026年4⽉5⽇ 復活の主⽇
Ⅰ.イースターの朝の福⾳
まだ読み始めたばかりのマタイによる福音書ですが、その最後を先取りして見てみますとイースターの朝の出来事が記されています。マグダラのマリアともう一人のマリアが主イエスの葬られた墓に行きます。しかしそこに主イエスの遺体はなく、天使が「あの方は死者の中から復活された」と告げました。それを聞いた女たちは喜んで墓を立ち去り、弟子たちのところへ走ります。すると、イエスが行く手に立ちはだかって彼女らに言いました。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリヤラへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」。それがイースターの朝の出来事です。
主イエスは十字架にかけられました。その主イエス・キリストが今生きておられる!この知らせが弟子たちへ、すなわち私たちのところへもたらされた。「そこで私に会えるだろう」という主の約束が告げられました。私たちもイエス・キリストにお目にかかることができる。それがイースターの約束です。
皆さんは40 日間の受難節を、あるいはこの一週間の受難週をどのような思いで過ごしてこられたでしょうか。
どのような思いを抱えて生きてこられたでしょうか。軽やかな思いで過ごしてこられた方も、重い心を抱えてきたかたもおられるでしょう。キリストは、今日、「恐れるな」と言ってくださいます。「あなたたちは私に会える」と約束してくださっています。キリストにお会いできるその日こそが私たちの慰めですし、私たちの希望です。
私たちはキリストを待ち望みます。
私はこの期間をとても厳しい思いで過ごしてきました。
いろいろなことがありました。その中の一つは、現在イランで起こっている出来事です。このことについては皆さんも同じように重い心にならざるを得ないのではないかと思います。あの地で今、許されない暴力の行使が起こっています。
私は今朝のイースター礼拝を皆さんと一緒に献げる時を心待ちにしてきました。主イエス・キリストの復活こそ、暴力や死が支配するこの世界を救う希望の福音だと信じているからです。
数日前に、ある米国の神学者の祈り、あるいは祈りのかたちを採った説教を読みました。9月11 日の出来事を受けてのものです。このように言っています。
「『あなたの敵のために祈れ』というあなたの命令は、心に焼き付くほど明快です。ですから、これを後世のために記録させ、まだ生まれていない人々があなたを賛美するようにしてください。あなたが聖なる高みから、復活の命から地上に見下ろし、人々を満たす恐怖を抑え、戦争計画の必要性を断ち切ってくださったことを。復活の命こそがあなたの課題であり、死とその代理人こそがあなたの『最後の敵』です。」「今日、あなたの勇気を降らせてください。ペンテコステの力で私たちの間に吹いてください。死は留まることはありません。聖霊の風は必ず吹きます。ああ、私たちは復活の命をどれほど切望していることか!銃がパンと交換される時を、戦艦が恵みの箱舟として解体される時を、戦争が友情に道を譲る季節を、私たちは切望しています。周囲からも、自分たちのなからも、『非現実的だ!』『絵空事だ!』『不可能だ!』というあざけりの声が聞こえます。しかし、イースターの朝もそうでした。それでも、あなたは彼を再び新しい命へと復活させました。すばらしく、不可能なことです!もういちど、私たちを驚かせてください。」「父、子、聖霊よ、『最後の敵として滅ぼされるのは、死である。』今、それを滅ぼしてください。アーメン。」
イースターの朝の出来事は最後の敵である死を滅ぼし、世界をまったく新しく変えます。神の力強い、福音の出来事なのです。
Ⅱ.ヨハネの期待、私たちの期待
洗礼者ヨハネはヨルダン川で罪の赦しのための、悔い改めの洗礼を授けていました。ヨハネは「私の後から来る人は、私より力のある方で、私は、その履物をお脱がせする値打ちもない」(11 節)と言っている通り、自分は後から来る方、即ち主イエス・キリストのために道備えしているのだ、と考えて活動してきました。罪を糺す救い主を待ち望んでいました。そして、ついにヨルダン川のヨハネのところへその方がやって来られました。「その時、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(13節)。主イエスが来られたのです。
ところが、やって来られたのは良いけれど、主イエスの言い分はヨハネの期待とは違っていました。イエスは、ヨハネから洗礼を受けると言い出したのです。ヨハネはイエスにそのようなことは期待していませんでした。ヨハネは、罪人が自分の罪を悔い改めて、罪の赦しを頂くために洗礼を授けていましたのです。ヨハネは12 節にもあるように、すぐにイエスが裁きを始め罪人を一掃することを期待していたのかもしれません。実行力があり、この世界を変える現実的なやり方を。ところが実際のイエス・キリストはヨハネの期待とは違っていました。罪人の外に立って彼らを裁くのではなく、罪人の中に立ちました。罪人と共にいました。しかも罪人の一人としてヨハネの手から洗礼を受ける、と言い出したのです。そのような救い主は、ヨハネにとっては期待はずれだったのではないかと思います。
コンサートホールでオーケストラの演奏開始を待ち望んでいる。いよいよ幕が上がると、そこにはたった一人、小さなリコーダーを持っている人がいるだけ。その人は笛を吹き始め、ほんの小さな音色を立て始めた…とイメージしてみても良いかもしれません。
先ほどご紹介した祈りを思います。復活の命を切望していました。銃がパンに交換され、戦艦が恵みの箱舟として解体され、戦争が友情に道を譲る季節が訪れることを。死が世界を支配しているのです。しかしこの信仰者は、その最後の敵である死が滅ぼされることを望み見ていました。周囲からも自分自身の中からも声が上がるのです。「非現実的だ」「絵空事だ」「不可能だ」と。イースターの知らせと同じように、希望は嘲笑され続けています。
結局、私たちが期待していることは、そういう事なのかもしれない、と思うのです。現実的な勢力図を描いてくれて、実行力があり、問題を解決できる人物です。私たちは、罪人の中に混じり込んで、罪の赦しのための悔い改めの洗礼をお受けになるような救い主を期待していないし、待ち望んでもいないのかもしれません。
Ⅲ.神の義を満たすために
主イエスがお受けになったこの洗礼は、実は、とてもよく似ていると思うのです。十字架と。
十字架は、あまりにも残忍な処刑法なので極悪人にしか適用されませんでした。イエスの裁判を担当したピラトは、イエスに死刑にするべき、まして十字架にかけるべき罪を一つも見つけることができませんでした。イエスには何一つ罪がなかった。しかし、イエスを十字架につけろと叫ぶ世論の声やその場の空気の支配に抗えず、イエスを十字架につけることを決めました。イエスは何の理由もなく、何一つ罪もないのに、罪人として、しかも極悪非道な重罪人として十字架につけられましたのです。
罪人が受けるべき洗礼をお受けになった方は、罪人がかけられるべき十字架にかけられました。ヨハネは洗礼を受けたいとおっしゃるイエスを何とか思いとどまらせようとします。しかし、主はおっしゃいます。「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです」(15 節)。
ここで「すべてを正しく行うのは」と翻訳されている言葉は「すべての義を満たすのは」と翻訳することもできます。この「義」は、「神の国と神の義」の「義」と同じ言葉が使われています。キリストは、ここで他の何でもなく神の義が満たされることを願っておられます。「神の義が満たされる。」どのようにして?それはキリストが罪人の中に立たれることことです。キリストが罪人として洗礼をお受けになることです。キリストが極悪非道な犯罪人として十字架で処刑されることです。
「すべての義を満たすのは、我々にふさわしいことです」。ここで主イエスは「我々」とおっしゃいます。「我々」とは誰のことか?まず、主イエスご自身。そして目の前にいるヨハネ。しかしそれだけではないでしょう。その場には他の人も居合わせました。ヨハネから洗礼を受けるために来た、大勢の罪人です。主イエスは罪人たちに周りを囲まれながら、ヨハネに語りかけておられます。
ここで主が「我々」とおっしゃるその中には、イエスの周りにいるたくさんの罪人たちも含まれています。主イエスがここで罪人の一人として洗礼をお受けになることによって神の義が満たされる。それは私たちすべての罪人にとってふさわしいことだと主は言われるのです。
だから私たちもキリストの十字架の死の姿にあやかるために洗礼を受けました。洗礼を受けるとき、私たちは、キリストの前で、キリストと共に、キリストによって死んだのです。これまでの私、罪人として生きてきた私は洗礼を受けて、もう死んだのです。そのようにして死んだ者を神は甦らせてくださいます。
洗礼をお受けになったキリストは、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になりました。
そして、天から声が響きます。この声は主イエスお一人が聞いたのではない。そこにいた罪人たち全員が耳にしました。「これは私の愛する子、私の心に適う者」(17 節)。
罪人の一人になって洗礼を受け、罪人の一人として十字架にかけられたこのお方こそ、神の愛する神の子です。
私たちはこのお方から神の御心を知らされます。
神がキリストを死者の中から復活させられました。一度死んだキリストを死者の中から引き上げられました。
同じ神が、やがて私たちにも同じようにしてくださいます。
「最後の敵として滅ぼされるのは、死である。」私たちはもはやこの世界を覆う罪や悪、死の僕ではありません。
神とそのキリストのものです。今、私たちは私たちを御自分のものとしてくださったキリストと、この礼拝で、お目にかかっているのです。

