エマオへの道
<イースター>
和田一郎牧師 説教要約
2026年4月5日
ルカによる福音書24章13-15節
Ⅰ. 絶望の中を歩く弟子たち
イースターの朝、私たちは主イエス・キリストの復活を喜び祝い、この礼拝へと招かれています。しかし今日の聖書に登場する二人の弟子たちは、その喜びの中にはまだいませんでした。彼らはエルサレムを離れ、エマオという村へ向かって歩いていました。エルサレムは、イエス様が十字架につけられた場所です。弟子たちにとってそこは、希望が砕かれた場所でした。自分たちが信頼し、従ってきたお方が捕えられ、苦しめられ、十字架で死なれたのです。彼らの心の中には、「これで終わった」という思いがあったことでしょう。
彼らは道を歩きながら、この数日の出来事を語り合い、論じ合っていました。それは出来事を整理するためというより、どう受け止めたらよいのか分からないまま、悲しみと混乱の中で言葉を交わしていたのです。「私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」という言葉には、深い失望がにじんでいます。過去形で語られているということは、彼らにとって希望はすでに過ぎ去ったものとなっていたのです。
私たちもまた、「こうなるはずだった」「神様はこうしてくださると思っていた」という期待が崩れるときがあります。祈ってきたのに思うようにならない、信じてきたのに現実は厳しい。そのような時、私たちの心もまた重くなります。足は前に進んでいても、心は沈んでいる――それがエマオへ向かう弟子たちの姿であり、同時に私たち自身の姿でもあります。
しかしその時、復活されたイエス様が彼らに近づき、一緒に歩いておられました。弟子たちの目は遮られていて、それがイエス様だとは分かりませんでした。それでも主は自ら近づき、その歩みに合わせて共に歩んでくださったのです。私たちが神様を見失っているときでも、神様は私たちを見失ってはおられません。「神様はどこにいるのか」と思う時にも、主なる神様はすでに私たちのそばに来てくださっています。見えないから「居ない」のではありません。感じられないから共におられないのでもない。むしろ、最も深い悲しみの中でこそ、復活の主は私たちに寄り添って下さるのです。エマオへの道とは、単なる昔の二人の弟子の道ではありません。失望し、迷って、辛い思いの中を歩いている、私たち自身の道でもあるのです。
Ⅱ. 語りかける主
復活の主は弟子たちのそばに来られると、「歩きながら話しているそのことは何ですか」と問いかけられました。すべてをご存じの主が、あえて尋ねられるのです。主はすぐに答えを与えるのではなく、まず彼らに語らせます。混乱した思いも、そのまま受け止めてくださるのです。弟子たちは、自分たちの経験、期待、そして失望を率直に語りました。「ナザレのイエスは力ある預言者だったが、十字架につけられて死んでしまった。天使が現れて生きていると言ったが、見当たらなかった」と。彼らは出来事を知っていながら、その意味を理解できていませんでした。主はその言葉を受けて、「愚かで心が鈍い者たち」と語られます。しかしそれは突き放す言葉ではなく、彼らの目を開くための言葉です。そしてモーセとすべての預言者から始めて、聖書全体がご自分について語っていることを解き明かされました。十字架の出来事は偶然の悲劇ではなく、神の救いの御業の成就であったのです。
十字架の下で人々は、「他人を救ったのだ、自分を救え」と嘲りました。しかしこの言葉は皮肉でありながら真理を含んでいます。イエス様は確かに他人を救われました。そして自分を救わなかったのです。なぜなら、ご自分を救えば、私たちは救われないからです。主は自分を差し出すことによって、私たちを救われました。ここに十字架の逆説的な愛があります。
弟子たちはその時まだ気づきませんでしたが、後にこう語ります。「道々お話しくださったとき、心は燃えていたではないか。」主の言葉は単なる知識ではなく、冷えた心を温め、沈んだ魂に命を与えるものです。聖書の言葉が自分に語られていると分かるとき、人の心は燃えるのです。
Ⅲ. 食卓に現れる主
やがて二人はエマオの村に着きました。主はなお先へ行こうとされましたが、二人は「一緒にお泊まりください」と強く引き止めました。主の言葉によって心を燃やされた彼らは、この方と共にいたいと願ったのです。
そして食卓で、主はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人に渡されました。その時、彼らの目が開け、主だと分かったのです。
この場面は、十字架の前夜の最後の晩餐を思い起こさせます。主は「切に願っていた」と言われ、弱く不完全な弟子たちを食卓へ招かれました。あの最後の晩餐の食卓には、やがて主を裏切るユダも、主を「知らない」というペトロも、誰が一番偉いかと争う弟子たちも共にいたということです。イエス様は、立派に整えられた人だけを招かれたのではありません。弱く、欠けを抱えた弟子たちを、この食卓へと招かれました。それも「切に願っていた」と強く願われたのです。それは今日の私たちにも同じです。弱く、理解の足りない者であっても、主が招いてくださる。聖餐式もそうです。最後の晩餐を再現しているのが聖餐式です。どんなに罪深いことをしていても、信仰理解が浅くても関係ありません。このことは、エマオの二人にもそのまま当てはまります。彼らは立派な信仰者ではありませんでした。「イエス様が復活した」その知らせを聞いてもなお、エマオへ帰ろうとしているのです。復活の知らせいを聞いて、信じて喜ぶどころか、失望して歩いていた人たちです。しかしそのような彼らを、主は退けられませんでした。むしろ主の方から食卓に着き、パンを裂き、ご自身を現してくださいました。主の食卓は、立派な成果を残した者へのご褒美ではありません。弱い者、疲れた者、理解の遅い者、つまずきやすい者を、なお主が招いてくださる恵みの食卓です。
Ⅳ. 再び遣わされる弟子たち
二人の弟子が主だと分かったその時、主の姿は見えなくなりました。しかし彼らの内には確かなものが残されていました。主の言葉によって燃やされた心と、パンを裂く主によって開かれた目、この二つが刻まれていたのです。
彼らはすぐに立ち上がり、エルサレムへと引き返しました。つい先ほどまで離れようとしていた場所へ、今度は喜びをもって戻っていったのです。絶望の道が、証しの道へと変えられました。復活の主に出会うと、同じ人生であっても、その意味が変えられるのです。
彼らは他の弟子たちに、自分たちの経験を語りました。復活の信仰は、胸にとどめておくものではなく、語らずにはいられない喜びです。
私たちにとっても、この礼拝は終わりではありません。復活の主に出会った者は、それぞれの場所へと遣わされていきます。家庭へ、職場へ、地域へ。そこにはなお困難や重荷があるかもしれません。しかし、私たちは一人で行くのではありません。エマオの道を共に歩まれた主が、今も私たちと共に歩んでくださいます。
イースターの喜びとは、単に復活の事実を知ることではなく、今も生きておられる主と共に歩むことです。主はみことばによって私たちの心を燃やし、食卓において養い、そして新しい歩みへと送り出してくださいます。
復活の主が共におられます。この恵みに生かされて、新しい一週間へ、新しい歩みへと遣わされていきましょう。く、それぞれの場所へ遣わされていきます。家庭へ、職場へ、地域へ。しかしそこへ一人で行くのではありません。復活の主が共に歩んでくださいます。
イースターの喜びとは、単に復活を知ることではなく、今も生きておられる主と共に歩むことです。主は語り、養い、私たちを新しい歩みへと送り出してくださいます。
復活の主が共におられます。この恵みに生かされ、新しい一週間へと歩み出していきましょう。
お祈りをいたします。


