聞く耳のある者は聞きなさい

和田一郎牧師 説教要約
2026年3月29日
イザヤ書60章1‐5節
マルコによる福音書4章21‐25節

Ⅰ. たとえ話

マルコ福音書4章では、イエス様は多くのことを、たとえによって語られました。「たとえ話集」と呼ぶことができる箇所です。先週は「種を蒔く人のたとえ」でした。イエス様のたとえ話は単に「分かりやすくするため」のものではありません。むしろ、聞く人の姿勢によって「分かる人には分かり、分からない人には分からない」という出来事を引き起こします。つまり、たとえで語ることによって、それを聞いた人がよく分かって納得するとは限らず「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できない」ということも起こるのです。そして今日語られるのは、聞く者は与えられ、聞く耳を持たない者は、取り上げられるという話です。

Ⅱ. 灯(ともしび)のたとえ

21節「『灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」とイエス様は言われました。灯というのはランプのようなものだったでしょう。灯は照らすためにあります。燭台の上に置かれて、部屋全体を明るくするものです。
「灯」とは「神の国」という意味です。しかし、この神の国は、最初から誰の目にも明らかに見える形では現れませんでした。イエス様は貧しい一人の人として地上に来られ、人々に理解されず、十字架にかけられました。まさに輝かしい神の光は隠されていたのです。
「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみにでないものはない」という言葉は、諺(ことわざ)のように使われていた言葉だったようです。実際、私たちも「悪い事は隠れていても必ずあらわにされる」とか、「悪いことを隠していても、必ず表面に表れてしまうものだ」ということを諺のようにいう事があると思います。
確かに神様の前では、隠し事はできません。しかし、ここでイエス様がおっしゃりたかった事は、灯という人々を照らす神の栄光は、隠されてしまうためのものではない、今は隠されているが、やがて神の時にあらわになるのだというのです。イエス様は貧しい大工の家に生まれ、人々から罵(ののし)られ十字架の死によって消えたように見えました。しかし、その灯は、復活によって輝き出しました。ですから「あらわにならないものはない・・・明るみに出ないものはない」というのは、神の救いが「やがて必ずあらわになる」という約束です。
イエス様によってもたらされた神の国の光は、いつの時代も誰の目にもはっきり見えるわけではありません。初代教会も今の私たちも同じです。この世界には「神の国などどこにあるのか」と問いかけたくなる現実に満ちています。悲しみや苦しみがあふれる現実の中で、神の働きを見出すことは簡単ではありません。そのような中で、教会は、神の国を信じて、その隠された光を見つめながら歩んでいるんです。
それができるのは、この隠された神の働きが、やがて必ず明らかになるという約束があるからです。いつか、復活して天に昇られたイエス様が、再びこの世に来られる、再臨(さいりん)の時に実現します。その時には、今隠されているすべてのものが明らかにされます。
私たちの罪も明らかになります。しかしそれ以上に、イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかり、復活してくださったことによって与えられた、永遠の命の恵みが、はっきりと現されるのです。

Ⅲ. 「聞く耳」と「自分の秤(はかり)」

イエス様は続けて言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい」これは、4章9節の、種を蒔く人のたとえの中でも、同じ言葉を語られました。たとえ話の前後で、「聞く耳のある者は聞きなさい」と釘を刺すように言うのです。
ただ「音を聞く」という意味ではありません。信仰をもって、心を開いて「聞け」という招きです。自分のあり方が問われ、変えられていくことを受け入れて聞くのです。そういう意味においては「聞く」ことは「祈る」ことでもあります。祈りは神との会話です。こちらが語れば、神も語ります。自分が語るだけではないのです。神様の私への思いがあって、それを聞のです。
「聞く」ためには「黙る」ことです。言葉を捨てることです。だから、イエス様は自分の秤で量っていないか?というのです。私たちは皆、自分の「秤」を持っています。問題は、その秤が「自分中心」ではないか?自分に都合のよい言葉だけを受け入れてしまう。そのような「小さな秤」では、神の恵みを十分に受け取ることはできません。では「大きな秤」とは何か。
25節「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」とある通りです。大きな秤を持っている人は、さらに与えられる。ある牧師が言うには「大きな秤」と「持っている」とは、つまり「悔い改め」だと説明しました。「持っている」とは悔い改めの心を持っているというのです。私もそうだと思わされました。
自分中心という小さな秤ではなく、悔い改めの心を持っている人はさらに加えて与えられる。自分が変えられることを受け入れること。この秤をもつ人には、「さらに与えられる」と主は言われます。ですが、悔い改めの心を持っていない人は「持っているものまでも取り上げられる」秤というものは、能力でも功績でもありません。神の前に立って忠実であったか、どうかを量る秤、悔い改めの心です。神に向き直る心、神の言葉に自分を開く心です。

Ⅳ. 「悔い改め」を持っている人は、さらに与えられる。

今、私たちは受難節(レント)を過ごしており、受難節は自己吟味し、悔い改めを求められる時です。十字架は「誰かの罪」ではなく、私自身の罪のためであったと、自分の内面を見つめる時です。C.Sルイスの言葉があります。
「悔改めは決して愉快なものではない。それはただ『屈辱に甘んずる』といったようなものではなく、もっともっと骨の折れることである・・・自己中心主義とを捨て去ることであり、またおのれの一部を殺し、一種の死を通過することなのである。事実、善人でなければ悔い改めることはできない・・・悔い改めとは、神のもとに戻ることそれ自体を意味する言葉である。したがって『悔い改めることなしに、あなたのもとに引き返らせて下さい』と神に求めるのは、『引き返すことなしに、引き返らせて下さい』と求めるのと同じなのである。そんなことは起こり得ようはずがない」(『キリスト教の精髄』)
悔い改めというのは、ただ「ごめんなさい」と言うことではありません。それは、自分の中にある思い上がりや自己中心を手放して、神の方へ向きを変えることです。ですから悔い改めは、とても大変なことです。自分を変える必要があるからです。そしてルイスは、少し意外なことを言います。「悔い改めができる人は、すでに善い人である」と。
私たちは普通、「善い行い」は人に親切にすることだと思います。しかしルイスは、自分の罪に気づき、神に立ち返ろうとすることが善いことだ、善人だと言うのです。
さらに大切なのは、悔い改めの意味です。
悔い改めとは、ただ罪を赦(ゆる)してもらうことではなく、神のもとへ帰ることです。これは、放蕩息子のたとえと同じです。息子は「赦してください」と言うだけでなく、実際に父のもとへ帰りました。もし帰らずに、遠くにいながら「赦してください」とだけ言っても、それは本当の悔い改めではありません。だからルイスは言います。「悔い改めずに神のもとへ戻らせてください」という祈りは、「戻らずに戻らせてください」と言っているのと同じで、不可能だと。
今、私たちは受難節を歩んでいます。そして明日から受難週に入ります。イエス様は、隠された神の国の「灯」として、この世に来られました。しかしその光は、十字架によって消されたように見えました。けれども、それは終わりではありませんでした。
復活によって、その「灯」は明らかにされたのです。ですから私たちは、その前にある出来事――主の受難の物語をこの一週間「聞く者」でありたいのです。主がどれほどの愛をもって十字架に向かわれたのか。その出来事を、ただ知るのではなく、「聞く耳をもつ者」でありたい。心で受け止める者でありたい。
悔い改めという「秤」を持って、主の十字架を見つめる一週間へと歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。