お帰りなさい、ここにあなたの家族がいます
宮井岳彦副牧師 説教要約
2026年4月19日
ヨハネによる福音書19章23-27節
Ⅰ. 人生のすべてが起こる場所
教会はとても不思議な場所です。ここには、人間が生まれて、成長し、働き、やがて最期の時を迎えるという人生のすべてが起こる場所です。
ここには生まれたばかりの赤ちゃんが来ます。来ていい場所です。赤ちゃんが泣いてしまうと親御さんとしてはいたたまれないですね。実は、赤ちゃんはその泣き声で神さまを賛美しているのです。11日には高座みどり幼稚園の入園式が行われました。お母さんに抱っこされている0才児がいました。緊張した面持ちでイスに座る3才児もいました。教会には成長したお兄さんお姉さんもいます。高座教会には教会学校キッズチャーチとジュニアチャーチもありますし、ガールスカウト、ボーイスカウトの活動もあります。子どもたちがここにはいます。
しかし、教会というのは、何も小さな頃から通っていなければ行くことができない場所ではありません。大人になってから、いろいろな切っ掛けで教会に来てくださる方も大勢います。それこそお子さんがみどり幼稚園に通い始めて、ノア会に行ってみたという方。「春の歓迎礼拝」なるものに友人や家族に誘われて来てみたという方。キリスト教や聖書に興味や関心があって、思い切って来てみたという方。いろいろな切っ掛けで教会の戸を叩く、という方もたくさんおられます。
毎日働いて、日曜日に教会で献げる礼拝に行く。子育てをしながら教会に行って一週間がスタートする。家事育児介護に悩みながら、教会で祈ってもらう。やがて大切な人を看取り、別れを経験する。愛する人を葬(ほうむ)る悲しみも、教会で経験するのです。そして遂に自分自身の最期を迎え、他の誰かの手に自分の体を委(ゆだ)ね、この教会堂で葬られる。その葬りもまた、今朝私たちがしているのと同じ礼拝です。
そうやって人生の全部を経験しうる場所は、案外珍しいのではないかと思います。そう考えると、教会は家族に似ているのではないかと思うのです。家族も、やはり、人生の全部を一緒に経験する同伴者であり、パートナーです。
教会は家族です。私とみなさんとの間に血縁関係はありません。民法上の結びつきもない。しかし、神さまの家である教会で共に生きる、神の家族なのです。家族は嬉しい時や喜びの日にももちろん一緒にいます。共に喜べば喜びは倍増します。しかし、それだけではなく、悲しい時や嘆かないわけにはいかない日にも一緒にいます。共に嘆き、涙を流します。キリストの福音が結ぶ家族だからこそ一緒にいるのです。
Ⅱ. 十字架の側に立つ人たち
イエス・キリストが十字架にかけられたとき、四人の女性がその側に立っていました。主イエスの母マリア。その姉妹。クロパの妻マリア。マグダラのマリア。その四人です。更にもう一人、男性の弟子も側にいたようです。イエスの「愛する弟子」。この人の「愛する弟子」というのは半ばニックネームのようなもので、この福音書に何回かそう呼ばれて登場しています。イエス様が愛し、大切になさった弟子の一人なのでしょう。
この人たち一人ひとりがイエス様のことを大切に思っていました。イエス様が十字架にかけられたとき、独りぼっちにはせずにその側に行って、イエス様のお姿をそこで見つめていた。特に母マリアの悲痛は如何(いか)ほどであったでしょう。十字架の上で、両手を広げて釘うたれ、磔(はりつけ)にされるわが子の姿を目の当たりにしたのです。
側に立つ母マリアと愛する弟子を見つめて、イエスは言われます。26,27節です。
イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」
イエス・キリストは十字架にかけられているまさにその時、十字架の上で、新しい家族を生みだしたのです。
教会は人生のいろいろな時間を共にしますが、その中でも特に葬(ほうむ)りの時間を大切に考えています。
個人的な経験で大変恐縮ですですが、私が親族以外の人のお葬式に始めて出席したのは、確か小学校2年生3年生くらいの頃のことで、それは教会でのお葬式でした。その後も、高校生の時にも、学生の時にも、何回もご葬儀に出席させていただきました。伝道師・牧師になってからも、仕えてきた成瀬教会、さがみ野教会、高座教会でたくさんの方の葬りに立ち会う機会を頂きました。
先ほども申し上げたとおり、教会の葬式は礼拝です。私たちは愛する人を葬るときに、神さまを礼拝します。イエス・キリストを礼拝します。十字架を前にしてキリストを仰いで、私たちは神に礼拝を献げることで家族を葬ります。十字架を前にして、私たちは嘆きを共にする家族として結ばれるのです。
それはちょうど、あの4人の女と1人の男が十字架の側に立っていたのとよく似ていると思います。あの人たちが十字架の側に立って、十字架にかけられたイエスを見あげて嘆いているのと同じように、私たちも十字架の前でキリストを仰いでいます。
この十字架の下にいる私たちに向かって、キリストは言われます。「女よ、見なさい。あなたの子です。」「見なさい、あなたの母です。」私たちは十字架の上にいるイエス・キリストが結び合わせてくださった家族です。
Ⅲ. 広げられたイエスの両手
十字架は縦木と横木が組み合わされて造られています。この横木に人間の両手を目一杯広げて、その手に釘を打ち付けて磔にします。十字架の上で、イエスの手は目一杯、グーッと広げられています。
私は思うのです。両手を大きく広げる仕草は、イエス様がこれまでもたびたびしてきたことではないか。イエス様の伸ばされた両手は思いのほか広く、私たちの想像を超えていて、どんな人でも招き寄せ、迎え入れてしまいます。
イエス様の最初の弟子は貧しい漁師でした。その後で弟子になったのは、人々から「売国奴(ばいこくど)」と呼ばれていた徴税人の仕事をしていた人でした。弟子たちの中には過激な独立運動グループ「熱心党」のメンバーもいました。
他にもいます。イエス様は、わざわざ病人のところへ行きます。社会の中でいちばん差別されていた種類の病気を患っている人のところへ行きます。悪霊に取りつかれて苦しんでいる人のところにも行きます。十字架の側に立つ女のひとりのマグダラのマリアは、七つの霊に取り憑かれて苦しめられていたそうです。どんなに辛い経験だったことでしょう。あるいは別の悪霊に憑かれていた男は、町で暮らすことを許されずに墓場に鎖で繋がれていました。イエスはその人のところへも行きましたイエスは町中の人から「罪人」と言われている人のところへ行って宿をとり、一緒にパーティをして喜びました。
イエスさまの大きく伸ばされた手はどんな人をも受け入れます。誰でも抱きしめ、愛し、誰でも神の家族として迎え入れるのです。私たちの予想を超えてあまりに広く、その手は、この社会が維持してきた境界線の向こうにまで伸びています。イエスの手は、今、十字架の上で更に大きく広げられます。そしてイエスはおっしゃいます。「女よ、見なさい。あなたの子です。」「見なさい、あなたの母です。」何と言うことでしょう。キリストは私たちをお互いの家族として結び合わせたのです。私たちは、キリストに結ばれた家族です。
Ⅳ. イエスの祈りに支えられて
23,24節を見ると、兵士たちがイエスさまの服を奪(うば)って分け合った、と書いてあります。この兵士というのはイエスを十字架にかけた、その直接の死刑執行人のことでしょう。イヤな役回りの報酬として、着ている服を奪って自分のものにすることができた、ということなのだと思います。ところが彼らがイエスの下着を見てみると、上から下まで縫い目のない、一枚織りの上質の服であることが分かりました。それで、彼らは裂かずにくじ引きをして誰の取り分かを決めた。
実は、一枚織りの服は祭司が着る服だったそうです。誰も気づかなかったけれど、実はイエスは祭司として十字架につけられたということを暗示しているのかもしれない。祭司とは何者か。祭司は、人々のために祈ることを務めとする者です。イエスさまは十字架の上で、祭司として、私たちのために祈っていてくださるのです。
「神さま、この人たちを家族として結び合わせてください。喜びの日も、悲しみの日も共に生き、共にあなたを礼拝し、共に十字架を見あげる、神の家族として。」
イエスは私たちを見つめておっしゃいます。「女よ、見なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」
皆さん、隣を見てください。あなたの子がいます。あなたの妹が、弟がいます。周りを見てください。あなたの母がいます。あなたの父がいます。あなたのお姉さんが、お兄さんがいます。ここにあなたの家族がいます。ここは神の家です。共に十字架にかけられたキリストを見あげ、共に神を礼拝し、共に生きるのです。
お帰りなさい、ここにあなたの家族がいます。

