悪霊に取りつかれた人を癒やす

<洗礼・転入会式>
和田一郎牧師 説教要約
2026年6月7日
箴言3章5-10節
マルコによる福音書5章1-20節

Ⅰ. 人を縛るものから解放される主

この箇所は、前の4章で弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた後の出来事です。イエス様は嵐を静められ「いったいこの方はどなたなのだろう」と弟子たちは驚きます。今日の聖書箇所は、その答えでもあります。嵐を静めた方は自然界だけでなく霊的世界にも権威を持つ方である。そしてもう一つ、ゲラサ地方はユダヤ人の土地ではなく異邦人の地域でした。イエス様は、ユダヤ人の地域を越えて異邦人の世界へ足を踏み入れたのです。「向こう岸へ渡ろう」と明確な意思をもって、異邦人伝道へ踏み込んでいく箇所です。
そこでイエス様は「汚れた霊に取りつかれた人」と出会われました。彼は墓場に住み、人々から恐れられ、鎖でもつなぎ止めることができませんでした。悪霊の話など、自分たちとは関係のない話だと感じるかもしれません。しかし、遠い昔の他人事ではありません。この物語は「悪霊の話」ではなく、「イエス・キリストが失われた人を取り戻してくださる物語」です。
しかし、悪霊とは何でしょうか。もちろん聖書は霊的な存在を語っています。ですから悪霊とは人を神から引き離し、人間らしさを失わせるすべての霊的な力を表しているのです。
この人の中の悪霊は、自分の名前を「レギオン」と名乗りました。レギオンとはローマ軍の軍団の単位名です。たとえば「師団」「旅団」「連隊」のように部隊の規模と役割を示す単位で、一つのレギオンの規模は数千人もの兵士がいました。当時のユダヤ人にとって、ローマ軍は恐怖と支配の象徴でした。その意味でレギオンとは、一人の人間では対抗できない大きな力を表しています。
そしてそのような力は、現代にも存在します。私たちは自由に生きているように見えます。しかし実際には、多くのものに縛られています。人を数字で評価する社会。成績、収入、地位、業績によって価値が決まるかのような世界。また、絶え間ない比較の世界。SNSを開けば、誰かの成功や楽しそうな生活が目に入ります。すると私たちは、自分と人を比べ始めます。「あの人は幸せそうだ。」「自分はまだ足りない。」そうして本来の自分を見失ってしまいます。
また将来への不安もあります。老後への不安。健康への不安。経済への不安。人間関係への不安。気づけば不安が人生を支配し、神への信頼よりも恐れの方が大きくなってしまうことがあります。
さらに孤独の問題もあります。現代はこれほど通信手段が発達しているのに、孤独を感じる人は少なくありません。誰にも相談できない。自分の弱さを見せられない。助けを求められない。そんな孤立の中で苦しむ人々がいます。
これらはすべて、私たちを神から引き離し、本来の自分を失わせる力です。レギオンという悪霊は、昔の話ではありません。今も形を変えて私たちの周りに存在しています。そして時には私たちの心の中にも入り込みます。しかしイエス様は、そのような力に縛られた人を見捨てません。イエス様はわざわざ湖を渡り、この一人の人に会うために来られました。

Ⅱ. イエスは私たちの名前を尋ねてくださる

イエス様はその人に尋ねられました。「名は何というのか。」すると彼はこう答えます。「名はレギオン。大勢だからです。」
本来なら、自分の名前を答えるはずです。しかし彼は、自分自身を失っていました。彼はもはや一人の人格として生きていませんでした。「私はレギオンです。」それが彼の答えでした。
私たちもまた、自分の本当の名前を忘れてしまうことがあります。仕事で評価されれば、その評価が自分になります。失敗すれば、その失敗が自分になります。病気になれば、その病気が自分になります。あるいは人から言われた言葉に傷つき、その言葉が自分自身を支配することもあります。「あなたはだめだ。」「期待外れだ。」「価値がない。」そんな言葉が心に残り続けることがあります。
しかし神はそのようには見ておられません。神は私たちを数字や肩書きや失敗によって見ません。神は私たちを名前で呼ばれます。イザヤ書にはこうあります。
「わたしはあなたを名をもって呼ぶ。あなたはわたしのもの。」
神は一人ひとりをかけがえのない存在として覚えておられます。今日は洗礼・転入会式がありますが、洗礼とは、この神の呼びかけに応えることです。社会が与える名前ではなく、神が与えてくださる名前を受け取ることです。
「あなたはわたしの愛する子。」「あなたはわたしのもの。」その神の声を聞きながら歩み始めるのが洗礼なのです。

Ⅲ. 解放された者は共同体へ帰される

悪霊が追い出された後、その人はどうなったでしょうか。聖書にはこうあります。
「服を着て正気になって座っていた」のです。
それまで裸で墓場をさまよっていた人が、落ち着いた姿で座っています。これは単なる病気の回復ではありません。人間としての尊厳を取り戻した姿です。神に造られた本来の姿が回復されたのです。
そして注目したいのは、彼が墓場に戻らなかった。人々との交わりの中へ帰されていきました。救いとは、神様との関係だけではありません。人との関係も回復されることです。だから教会は大切です。信仰は一人で生きるものではありません。私たちは神の家族として生きるように招かれています。
高座教会は「誰もひとりぼっちにしない教会」を目指しています。それは単なる合言葉ではありません。福音そのものです。イエス様は人を孤独の中に放置されません。神の家族の中へ招いてくださいます。

Ⅳ. 救われた者は証し人として遣わされる

この人はイエス様に願いました。18節「お供をしたい」と。当然の願いだったでしょう。これほどの恵みを受けたのですから、イエス様のそばにいたいと思ったのです。ところがイエス様は言われます。
「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい」。
彼は弟子にはなりませんでした。しかし証し人になりました。家族のもとへ帰り、地域へ帰り、自分に与えられた恵みを語り始めました。
私たちは特別なことを語る必要はありません。神学校へ行かなければ証しできないわけでもありません。ただ、「神様が私にしてくださったこと」を語ればよいのです。救われた喜び。支えられている感謝。赦された恵み。それが私たちの証しです。
レギオンとは、私たちを神から引き離し、自分らしさを失わせる力です。それは昔のローマ軍だけではありません。人を数字で評価する社会、他人との比較、孤独、不安、競争。そうした力は今も私たちの周りにあります。そして時には私たち自身の心の中にも入り込みます。
しかしイエス様は、そのような力によって「レギオン」としか名乗れなくなった人に、本来の人生を取り戻してくださいました。その人は再び人として生き始めました。神の家族の交わりの中へ迎え入れられました。そして証し人として遣わされました。主は今日も私たち一人ひとりを見つめ、名前を呼んでくださいます。
「あなたはわたしのもの」だと。
この主の招きに応えて、神の家族として共に歩んでまいりましょう。
お祈りをいたします。