驚きをもって、キリストに従おう

宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福音書5章13~16節
2026年6月7日

Ⅰ.あなたがたへの福音

今日の主イエスの御言葉を聞いたとき、弟子たちは驚いたのではないかと思います。主イエスがこの御言葉をお語りになったのは、主イエスの宣教が始まってまだ間もなくの時です。イエスさまが最初になさったのは、弟子たちを集めること。まだ殆ど何もしていない、その最初の時に、ガリラヤ湖で漁をしていた4人の男たちをご自分の弟子になさいました。その後、病人を癒やしたり、悪霊に取りつかれている人や体の麻痺した人を癒やしたりした。まだたった4人しかいなかった弟子たちは、そういうイエスさまのお姿を見て「私たちの先生は凄いな」と思ったかもしれません。そうしていたらイエスさまは山に登り、腰を下ろして語り出しました。「心の貧しい人々は、幸いである。…。」この言葉を弟子たちがどのくらい理解できたのかは分かりません。いい話だと思って聞いたのかもしれません。ところが突然、単なる「いい話」では済まなくなったのです。弟子たちの予期していなかったことを主イエスさまは口になさいました。「あなたがたは地の塩である」とおっしゃった。突然、主イエスが「あなたがた」とおっしゃったのです。
「心の貧しい人々」も「悲しむ人々」も「へりくだった人々」も、それ以下のものも、どれも三人称です。自分ではなく誰かの話、としても聞けてしまいます。そういう人は確かに幸いだな、と他人事として聞き過ごしてしまうこともできます。11節の「私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、…」には確かに「あなたがたを」と言われていますが、この時点の弟子たちの状況からして、恐らくまだリアリティがなかったように思います。もちろんイエスさまは他人事としてこれらのことをおっしゃったのではない。しかし、もしかしたら弟子たちは他人の話として済ませてしまえたのかもしれません。
ところが13節にいたって、主イエスの話の矛先は実は私たちに向いていたと気づいたのではないかと思います。「あなたがたは地の塩である。」急に私の話が始まった。「あなたがたは」と主はおっしゃっていますが、この言葉は「あなたがたこそが」「他でもないあなたがたは」といったとても強いニュアンスです。弟子たちは突然自分にぐいっと向いた矢印に戸惑ったのではないかと思います。びっくりしたと思います。イエスさまの話が他人事では済まなくなってしまったのです。
しかも、主イエスは塩や光の話をしています。塩も光も絶対になくてはならぬものです。あってもなくても良いけれどあったら便利、というものではありません。思えば、主イエスは「あなたがたは、地のおやつである」とはおっしゃいませんでした。コーヒーやお茶でもない。嗜好品ではないのです。塩は命に関わる必需品です。あるいは「あなたがたは、世の装飾品である」ともおっしゃっていないのです。光です。どんなにきれいな装飾品が家の中を飾っていたとしても、そこにどんなに豪華なものが置いてあったとしても、そもそも光がなければ見えません。
あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。他でもなくあなたたちが。あなたたちこそが地の塩であり世の光なのだ。あなたたちは地のために、世のために絶対に必要な存在、なくてはならない存在なのだ。弟子たちはそう言われて、心底驚いたのではないでしょうか。
ここまで説教をお聞きになってすでにお気づきのことと思います。「弟子たちは、この主イエスの言葉を聞いて驚いたに違いない」と申しました。しかし話はそれでは済みません。「あなたがたは地の塩である」と主イエスは言われる。これは、私たちとは関係のない2000年前のお弟子さんの話ではない。「あなたがたは世の光である」と主が言われたときの「あなたがた」には、当然、今ここで御言葉を聞いている「私たち」も含まれている。主イエスは私たちの方をもじっと見つめて「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言っておられるのです。

Ⅱ.あなたがたは地の塩である!

「地の塩」というのはどういうことでしょうか?塩は、料理に塩味を付けたり、食材が腐らないようにしたりします。私たちの肉体にとっても欠かせません。これから暑い夏を迎えると、しっかり塩分を取らなければ命に関わる事態を招いてしまいます。「地の塩」というのは、絶対に地になくてはならぬ存在、ということなのだと思います。そしてそれは「あなたがた」のことだと主は言われる。皆さんが地の塩なのです。皆さんがこの地に絶対に必要な存在なのです。
そう言われてどうお思いになるでしょうか?「私はそう言われても…」「私がなくてはならない存在とまでは…」と思われますか?
私に説教を指導してくださった加藤常昭先生がかつておっしゃっていた忘れられない言葉があります。まだ私が神学生のときのことです。仲間が実際の説教を提出して、先生に指導して頂いたことがありました。その説教で彼はこのようなことを言いました。「私は弱くて小さな罪人です。イエスさまの弟子として生きることはなかなかできないのです。」それを聞いた加藤先生は静かに憤慨しておられた。厳しくおっしゃいました。「牧師はすぐにこういうことを言う。『私は罪人です』と簡単に言ってのける。不誠実な言葉だ。その罪人のあなたが洗礼を受けてキリストの弟子にして頂いたのでしょう。」
今日の主イエスの言葉にもういちど注目したい。「あなたがたは地の塩である」と主は言われます。主は「あなたがたは地の塩になりなさい」とはおっしゃっていません。「あなたがたは地の塩である。」もうすでに、事実として、あなたがたは地の塩だと主は言っておられるのです。驚くべき言葉です。驚きつつ、しかし主イエスの言葉を信じたいのです。「いやいや私なんて…」と言う前に、キリストが私たちに向かって宣言しておられる、その言葉の方を信じたいのです。
主は更におっしゃっています。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」何を言っておられるのでしょうか?塩は、化学的に言って、その塩味を失うことは絶対にないそうです。しょっぱくない塩というのはあり得ない。しかし、そのあり得ないことが起きてしまっていないか?キリストの味を失ったキリスト者になってしまってはいないか?そんなことあり得ないはずではないか。もしもそうなってしまうとしたら、それは、あなたがたは地の塩であるとおっしゃるキリストの宣言を私たちが心底信じていないところから始まるのではないでしょうか。
私たちは一体何者なのでしょう。私たちは「心の貧しい人々は、幸いである」と主イエスに言って頂いた者です。「心の貧しい」というのは、現代では不快語として使われない表現ですが「心の乞食」という言葉です。もらわなければ生きられない存在です。私たちは本当は惨めです。その惨めな者に主は「幸いだ」と言ってくださっている。なぜなら、「天の国はその人たちのものである」から。私たちにあるのは主イエスの「幸いだ」という言葉だけです。同じように私たちは悲しんでいても、主に慰めて頂き幸いを告げて頂いている者です。それだけなのです、私たちにあるのは。キリストとその福音の言葉によって、私たちは地の塩にして頂いているのです。

Ⅲ.あなたがたは世の光である!

「あなたがたは世の光である」という御言葉も同じではないでしょうか。山の上にある町は隠れることがない。周りの人々をも照らし出す。あるいは、灯は燭台の上に置くものであって、せっかく点けた灯を升の下に置くなんてバカなことはしない。キリストが私たちを世の光にしてくださったのです。周りの人たちを照らし出す光に、主がしてくださった。
加藤先生の忘れられないご指導はいろいろあります。加藤先生はパウロが大好きでした。パウロは「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者になりなさい」(一コリント11:1)と言っています。加藤先生は、皆さんも同じように言わなくちゃダメだよ、とよくおっしゃいました。しかしこれは大変な言葉です。「イエスさまを信じて生きるというのはどういうことか?それは、私の真似をしてくだされば良いのです。」しかしおいそれと口にできません。ですから、加藤先生がパウロの話をなさると、それを聞いている私たちからはつい失笑が漏れてしまう。ところが加藤先生はちょっとムッとしながら更におっしゃいました。「あなたたちはまさか、私の真似だけはしないでくださいと説教して伝道できると思っているのですか?」胸に突き刺さるような言葉でした。
主イエスはおっしゃいます。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」このようなことを言われると、怯んでしまうし、たじろいでしまいます。やはりこれも、キリストの福音宣言に帰ることからしか考えられないのではないでしょうか。
ここに「あなたがたの立派な行いを見て」とありますが、この「立派な」というのは「美しい」と訳すこともできます。この言葉は、例えばローマの信徒への手紙12:17で「誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい」の「善」という言葉と同じです。すべての人の前で美しい行いをするように心がけなさい、と言っている。その美しさは、他人の悪に対して自分の方も悪をもって報いるようなことはしない、という美しさです。すべての人と平和に過ごす美しさです。これはキリストが私たちにしてくださったことそのものです。キリストのように生きる美しさ。「平和を造る人々は、幸いである」と言われた方ご自身の美しさを映す者として、私たちも生きられる。これは、キリストがしてくださった力強い約束です。私たちの伝道の言葉は「キリストの福音宣言でしか生きられない私の真似をしてください」です。
主は、私のことをも地の塩と、世の光と呼んでくださった。私を新しくしてくださった。私たちはこの言葉を信じる。私を通してキリストの愛にこの世界が照らされることを信じる。すべての人が神を崇める喜びに生きるために。