私たちも義に生きられる

宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福音書5章17~20節
2026年6月14日

Ⅰ.聞かなかったことにしたい言葉

「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」主イエスはそう言われます。この言葉をお聞きになって、率直に言って皆さんはどのように思われるでしょうか?「ああその通り!」と手を打ってお聞きになる方もおられるかもしれませんが、私が想像するに、そういう方は少数派ではないでしょうか。この主イエスのお言葉を聞いて嬉しい気持ちになるという方はあまり多くはないのではないかと思います。
ここで主イエスが「律法と預言者」と言っておられるのは要するに今日私たちが「旧約聖書」と呼んでいるものであると考えて差し支えありません。しかしその中心はやはり「律法」です。律法と言えばいちばん有名なのは十戒です。「父母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」「隣人の家を貪るな」など、「〇〇しろ」とか「△△するな」などという戒めや掟の言葉がたくさん出てきます。主イエスが来られたのは、こういう律法や預言者の言葉を廃止するためではない。そんなふうに考えてはいけない。そうではなく、これらの言葉を完成するためだ。主イエスご自身がそのようにおっしゃっています。
更に言えばこの後話はもっと具体的に進んでいきます。来月から21節以下のところを順番に読んでいきますが、個々の戒めについて主イエスが言及していかれます。例えば最初の段落では「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる」と言われています。「殺すな」というのは常識的に言ってもすぐに納得できる。しかし更に主イエスは腹を立てるなとか「馬鹿」と言うなとか、もっと突き詰めたことを言っておられる。ここまでいくとかなり厳しい。自分の心を覗けば正直なところ殆ど不可能だと言わざるを得ない。そうではないでしょうか?この言葉の通りにしろと言われても途方に暮れてしまうし、こんなのは無理な要求、非現実的だとイヤな気持ちになるかもしれません。あるいはそのようにできない自分に嫌気がさして悲しい気持ちになるかもしれません。皆さんはどう思われるでしょうか?
更に言うと18節には「よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない」と言われています。律法の一点一画、つまりいちばん小さな律法の言葉であっても、それが消えうせることはあり得ない。そのようなことが起こる時が来るよりも、天地が消えうせる時の方がよほど早く来る、と言われるのです。
古代教会にマルキオンという人がいました。この人は17節の主イエスの言葉をこのように書き換えてしまったそうです。「私が来たのは律法や預言者を完成するためだ、と思ってはならない。完成するためではなく、廃止するためである。」私たちはマルキオンのように聖書を勝手に書き換えてしまうことはないかもしれません。しかしもしかしたら、心の中では同じ事をしでかしてしまうのかもしれません。
だって…イエス様は悪いファリサイ派をやっつけてくださったじゃないですか。律法の言葉にばっかりこだわる心ない連中から私たちを守ってくださったじゃないですか。そんなイエス様が、私たちには土台することのできない無理な要求をなさるはずはない。もしもムリに思えることをおっしゃるなら、そこには何か深いわけがあるに違いない。そんな言い訳が心に浮かんできます。つまり、私たちははっきり言って律法なんて嫌いなのです。聖書に律法などというものがあるのもイヤだし、見なかったことにして済ませてしまいたい。
なぜか?律法が怖いからです。律法を恐れているのです。守れないからです。耐えられないからです。律法は不自由の象徴です。高邁な理想かもしれないけれど、非現実的な要求でしかない。
ところがそのくせ私たちは律法を利用するのは大好きです。他人を裁くためであれば。あの人は他人に「馬鹿」と言っている。あの人の目は姦淫を犯している。あの人は祈っていない。…。そうやって他人を裁くのはとても気持ち良いことです。他人を裁いている間、私たちは完全な義人になることができます。そんな心根を「律法主義」や「ファリサイ主義」と呼びます。それが私たちの心に巣くう本当に悲しむべき現実なのです。

Ⅱ.やっぱり答はキリストの言葉にある

私たちへの答は、聖書が伝える主イエスの御言葉にしかないと私たちは信じます。ですから、もういちど主イエス様の言葉に耳を傾けましょう。
「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
この言葉はもう少し正確に翻訳すると、このようになります。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。私が来たのは廃止するためではなく、完成するためである。」つまり、本来は「私が来たのは」と二回繰り返されています。主イエスが来られて、主イエスご自身が律法を完成なさった。
それでは主イエスが来られて律法を完成なさったというのは一体何を意味しているのか?そのことについて、これまで読んできたマタイによる福音書の記述の中に、すでに語られているところがありました。第3章15節です。「しかし、イエスはお答えになった。『今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」ここで「すべてを正しく行うのは」とありますが、直訳すると「すべての義を完成するのは」です。これは主イエスがヨルダン川で洗礼を授けられる時の会話です。ヨルダン川で罪の悔い改めの洗礼を授けていた洗礼者ヨハネのところに主イエスがやって来られた。洗礼を授けてほしいと言う。ところが洗礼は、本来、罪人が自分の罪を悔い改めて、そのしるしとして受けるものです。主イエスは罪を犯したことがないお方。ヨハネはそのことをよく知っていましたから、思いとどまらせようとします。むしろ私の方があなたに洗礼を授けて頂くべきです、と。ところが主イエスはお答えになった。「今はそうさせてもらいたい。すべての義を完成するのは、我々にふさわしいことです。」罪のないお方がへりくだって、罪人の一人に数えられて、洗礼を授けられる。罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼をお受けになる。それが「すべての義を完成すること」だと主イエスはおっしゃった。
キリストが律法を完成するというのは、このお方がへりくだって洗礼をお受けになることです。このお方が罪人の一人になることです。キリストのへりくだりによってすべての義が完成されたのです。

Ⅲ.キリストの愛の呼びかけ

私たちは、罪人です。神さまの律法の前に立つ時、自分が罪人だということが明らかにされます。だから私たちはそれが心底厭なのです。辛いのです。目をそらしたいのです。でも、イエスという律法を完成させるお方が私たちのところへ来られました。私たちのところへ来て、私たちのところに立ち、罪人の一人になってくださいました。そのお方が私たちを招いておられます。私が来て完成した律法にあなたにも従って欲しい、と。他でもないイエス・キリストが招き、他でもないキリストが私たちに従うことを求めておられる。それが私たちのすべてではないでしょうか。
かつて留岡幸助という牧師がおられました。1864年の生まれで、同志社神学校で新島襄の薫陶を受けた、という方です。あるとき、空知集治監で教誨師として働くことになりました。獄に繋がれた囚人たちと対話し、また、司法官や監獄官らの懲罰主義的なあり方を目の当たりにした。人は罰すれば罰するほど悪くなる一方だ。留岡牧師は、本を塞がずして末ばかり納めては駄目だと考え、遂に、監獄改良の志を抱いてアメリカに学びに行きます。帰国後、最初は巣鴨に、その後北海道に「家庭学校」を建学しました。いろいろな問題を起こす子どもたちを集め、自然の中で共に生き、新しい感化を与えるための教育の場を作ったのです。
ともすると私たちにとっての律法は、留岡牧師が空知で目の当たりにした懲罰的な掟のように響いてしまいます。それは自分の中からも、外からも響きます。ちゃんとできなければ意味がない、そんな自分では価値がない。あるいはそういう声を他人に向けてしまうこともあるのです。しかし留岡牧師が監獄の教誨師として、あるいはその後家庭学校の教師として取り組んだのは、相手を信頼し、耳を傾け、共に生きるための新しい指針としての言葉だったのではないかと思うのです。
20節で主イエスはおっしゃっています。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」主イエスがおっしゃる律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とは一体何か?それはやがて第22章にいたって、主イエスご自身がはっきりとお教えくださることになります。「イエスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」キリストが私たちにお求めになるのは、神を愛すること、そして隣人を愛することです。これこそが律法と預言者だと言われる。キリストは私たちを信頼して、私たちの愛を欲しておられます。
主イエスは私たちを新しく、人間らしく生かす、自由の言葉を語りかけてくださいます。キリストの愛が拓く新しい世界です。神を愛し、隣人を愛する。いや、それに先だって神が私たちを愛してくださっている。その愛を完成するために、キリストがへりくだって私たちのところへ来てくださったのです。今日私たちが耳にしているのは私たちの愛を求めるキリストの熱い求愛の言葉なのです。