あなたたちに会いたい

宮井岳彦副牧師 説教要約
2026年6月21日
詩編133編1-3節
ローマの信徒への手紙1章8-15節

Ⅰ. あなたたちに会いたい

本当に、パウロは情熱的な人です。熱い人物です。福音を届けたい。イエスさまを知ってほしい。そのことに情熱を傾けて生きた人物です。キリストと、ここにいる人への愛に溢れた人物です。
パウロの情熱は一体どこから生まれたのか?それは言うまでもなくパウロ自身のキリストとの出会いの経験です。パウロはかつてイエスをキリスト(救い主)と信じる者たちを迫害していました。イエスこそキリスト、即ちまことの王と信じる者たち。イエスこそ神の子と信じる者たち。そのような輩は神に逆らう甚だ不届きな連中だ。パウロはそう信じていました。目の前でキリスト者が石で打たれて処刑されるのを見ながら、石を投げる人たちの服の番をしていました。そしてパウロ自身が先頭に立って行く先々のキリスト教会の人々を縛り上げ、迫害していました。そんなパウロのところへイエスが来てくださった。幻の内にイエスが彼と出会われたのです。パウロは知りました。本当はこの方こそまことの王キリストであり、神の子なのだと。パウロは新しく生まれ変わりました。キリストが私のことをも愛してくださって、赦してくださったと知って、パウロは新しくなった。キリストとの出会いがパウロを変えました。パウロの情熱が、憎しみではなく愛に向かうようになったのです。
パウロは記します。「祈るときにはいつも、神の御心によって、あなたがたのところに行く道が開かれるようにと願っています。あなたがたに会いたいと切に望むのは…」(10,11a節)。いつも、祈る度にパウロは願ってきました。あなたがたに会いたい。それはパウロ自身に「キリストが私のところにさえも来て、会ってくださった」という原体験があるからです。だから今度はパウロ自身が「あなたがたに会いたい」「会って福音を届けたい」と切に望み、神に祈ったのです。
皆さんにも、「あなたに会いたい」と切に望んでいる、そういう誰かがいるのではないでしょうか?ずっと祈り続ける夫や妻かもしれませんし、子どもかも知れません。大切な友だちや、一緒に労苦した仲間かもしれない。あの人にもイエスさまを知ってほしいと願う人が皆さんにもいるのではありませんか?

Ⅱ. 私たちを結ぶもの

パウロもまたそう願い、情熱をもって祈ってきた。ローマに行って福音を分かち合いたい。しかし、なかなかその願いは叶えられませんでした。「きょうだいたち、ぜひ知っておいてほしい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも、何か実りを得たいと望んで、何度もそちらに行こうとしたのですが、今まで妨げられているのです」(13節)。これまではローマへ行こうとしては妨げられてきた。しかしここに至って、今すぐに行けないならば、と手紙を書いているのかもしれません。
このローマの信徒への手紙はとても面白い手紙で、読んでいくと、この手紙がどうやってローマの教会で読まれたのか、ということの一端を知ることができます。第16章1節です。「ケンクレアイにある教会の奉仕者でもある、私たちの姉妹フェベを紹介します」。このフェベという女性がパウロの手紙を持ってローマへ行き、ローマの教会の人々の前でこの手紙を朗読したのではないか、と考えられています。
パウロは恐らくコリントで手紙を書いています。ケンクレアイはコリントから11キロほどの距離にある街です。「フェベ」はユダヤ人の名前ではありません。異教の神々に由来する名前だそうです。ですから彼女は異邦人の生まれで、後に改宗してキリスト者になったのでしょう。ケンクレアイで伝道されてキリスト者になった。パウロはフェベを信頼して、この手紙を彼女に託したのです。きっと彼女はローマに点在する小さな家の教会を巡り、この手紙を朗読して聞かせたのでしょう。もしかしたら、フェベはパウロの言葉を補いながら、「イエスさまは…」と、聞いている人の目を見て、更に言葉を紡いで御言葉を語ったのではないかと私は思います。もはやこれは説教です。そしてまず間違いないことは、この手紙が日曜日に朗読されたということです。日曜日に皆が集まって礼拝を献げる。その時、その場にフェベがいて、パウロの告げる福音を語り聞かせた。ローマのキリスト者は一緒に聞いて神を礼拝した。
パウロは語りかけます。「あなたたちに会いたい。会ってあなたたちを力づけ、共に励まし合いたい。」そしてフェベがローマにやって来た。フェベを通してパウロと出会い、キリストの福音を聞いた。私たちと同じです。私たちも互いに会って、神さまに礼拝を献げて、祈って、御言葉を聞く。そうやって私たちは励まし合い、ひとつの教会になるのです。顔と顔とを合わせて会うこと、一緒に神に礼拝を献げることが私たちを結ぶ命綱(ザイル)です。
この教会にはいろいろな人がいます。それは神が私たちにくださった尊いプレゼントです。この教会では子どもたちが礼拝を献げています。若い青年たちがいます。ミドル層からシニアの方もおられ、老境を迎えている方もおられます。それだけではない。社会での役割も違えば、収入や生活レベルも違う。そんな私たちは一体どうしたらひとつになれるのでしょうか?懇親会を開いたり飲み会をしたりすればひとつになるのでしょうか?今の若い人であれば、とりあえずインスタからでしょうか。私は、そういうことはいちばん大切なことではないと思っています。もっと大事なことがある。礼拝です。若い人もお年を召した人も、顔と顔とを合わせて一緒に座り、同じ御言葉を聞いて、同じ神に祈る。私たちを一つにするのは、ただこの営みだけです。他にはありません。

Ⅲ. 霊のカリスマ

11節に「霊の賜物」と書いてあります。一体何を言っているのでしょうか?
「賜物」と翻訳されている言葉は「カリスマ」ですが、この手紙ではとても大事な言葉のひとつです。いろいろな箇所に登場しますが、特に今日の箇所との関連で読みたいのは、第12章4節からです。「一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に、教える人は教えに、勧める人は勧めに専念しなさい。分け与える人は惜しみなく分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」(12:4-8)。読んでみると明らかなとおり、ここで言っている「賜物」というのは何か個人的な特技や才能ということではない。教会をキリストの体として建てあげるための力を指しています。「霊のカリスマ」、それは教会をひとつの共同体として建てあげるために神が私たちそれぞれに託してくださった贈り物です。

Ⅳ. 神が望んでくださるから

更に第1章14節を見てみると、このようにあります。「私には、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」ここに「未開の人」とありますが、もう少し率直に翻訳すると「野蛮人」です。今日では炎上してしまいそうな表現です。英語のbarbarianの語源になった言葉で表現されている。もともとの意味は「言葉が通じない人」です。パウロ自身は今コリントにいて、周りにはギリシア語で会話できるギリシア人がいる。ユダヤ人パウロにとっては異邦の人々ですが、そこにはフェベもいて、この人たちに伝道してきました。そして、それだけではなく、私は言葉が通じない人にも福音を届けなくちゃならない、と言います。知恵ある人にもそうではない人にも、誰にでも、私は福音を届ける。更に、今この手紙を読んでいるローマの人たちにも、あるいは更に遠くにまでも。
ローマの教会にはいろいろな人がいました。ユダヤ人キリスト者もいれば、ローマ人もいました。ローマの教会は、どうやら分裂していたようです。ユダヤ人とローマ人とでは信仰のスタイルも違えば、生活習慣も違う。社会階層も、毎日の暮らしぶりも全然違う。弱い者が強い者を心の中で裁き、強い者は弱い者をバカにしていた。
しかし、すべての人に福音が届けられなくてはならない。この福音があなたたちに実りを結ぶ。霊のカリスマという実りを。福音があなたたちをひとつの教会にする。
そうです。キリストの福音が私たちをひとつの教会にします。そして、私たちをひとつの教会とするキリストの福音の現場は他のどこでもなくこの礼拝です。神の言葉が語られるこの礼拝なのです。
私たちの社会にあったはずのいろいろな共同体が今どんどん消滅しています。家族の姿やあり方が変わった。地域社会が弱く、細った。そうすると、相互に不信感が生まれます。親は学校に対して消費者のような態度で要求する。外国人差別の声が響きます。違いが呪いになってしまっている。「分断」としきりに言われています。世代、立場や役割、思想信条、生活ぶり。あらゆる場面で私たちはバラバラになっている。こんな社会で「共に生きる」などと主張するのはもうほとんど絵空事です。
そういう世界に、キリストの福音が生む共同体を神が造ってくださいました。パウロはキリストが生んだ教会であるあなたたちに会って、力づけ、私の方も励ましを得たい、と言います。ローマの教会にも問題はあります。当然です。問題のない教会など存在しない。それでも教会は、神ご自身の望みによって生まれたのです。神ご自身の望みが実現する場なのです。
神は私たちに対する希望を捨てないでいてくださいます。私たちをひとつの教会にするために、今日この礼拝で、神の御業が起こっているのです。