娘よ ― 神の家族へ迎えられて
和田一郎牧師 説教要約
2026年6月28日
マルコによる福音書5章21-43節
Ⅰ. はじめに
本日は11時の礼拝で、高座教会、地の塩ブラジル人集会、スペイン語礼拝、MCM集会が共に集まる合同礼拝です。私たちは話す言葉は違いますが、毎週この同じ南林間の場所で礼拝をしています。育った国も違います。文化も習慣も違います。しかし、私たちは同じ主イエス・キリストを礼拝するために集められた者です。
Ⅱ. 二人の女性
今日の物語は、まず会堂長ヤイロの願いから始まります。会堂長とは、ユダヤ人の会堂、つまり礼拝と教育の中心シナゴーグを管理する責任ある立場の人です。地域の人々から尊敬され、信頼されていた人物であったでしょう。そのヤイロが、イエスのもとに来て足元にひれ伏しました。そして、必死に願いました。33節「私の幼い娘が死にそうです。どうか、お出になって手を置いてやって下さい。」会堂長という立場を持つ人が、人々の前でイエスの足元にひれ伏したのです。それほど娘の命は危なかったのです。この娘は十二歳でした。家族にとって、どれほど大切な存在だったでしょうか。イエスはその願いを受け止めてくださいました。ヤイロと共に、そして弟子やイエスに関心を寄せる多くの群衆と共に、娘のいる家へ向かって歩き出されました。
ところが、その途中で、もう一人の女性が登場します。十二年間、出血の病に苦しんでいた女性です。この女性は、多くの医者にかかり、持っているものをすべて使い果たしてしまいました。それでも病気はよくならず、むしろ悪くなっていたと聖書にあります。十二年です。ヤイロの娘が生きてきた十二年と同じ長さを、この女性は病の苦しみの中で過ごしてきたのです。毎日、痛みやだるさがあったかもしれません。しかし、彼女を苦しめていたのは病気だけではありませんでした。当時の社会では、このような病気の人を「汚れた人」とされ、人との接触を制限されていました。彼女は人に触れることも、人から触れてもらうことも避けなければならなかったのです。家族と一緒に食事をすることもできなかった。医者にかかっても治らない。お金はなくなっていく。人との関係も遠ざかっていく。期待しては失望する。願っては裏切られる。その繰り返しの中で、彼女の心はどれほど弱っていたでしょう。そのとき彼女は、イエスのことを聞きました。そして思ったのです。28節「この方の服にでも触れれば、治していただける。」しかし、ヤイロのように、イエス様に近づくことはできませんから、群衆に紛れて、後ろからそっと近づきました。そして、イエスの服に触れたのです。するとどうでしょう。彼女の病は癒やされたのです。
そこで、イエスは立ち止まられました。30節「私の衣に触れたのは誰か。」弟子たちは驚きました。大勢の群衆が押し迫っているのです。誰が触れたかなど分かるはずがありません。それにヤイロの娘の家へ、急がなければならない場面です。けれどもイエスは、この女性を探されました。
ここにキリストの愛があります。イエス様にとって、この女性は「今は忙しいから」と通り過ぎてよい人ではありませんでした。社会の片隅に置かれていた無名の女性のために、イエスは立ち止まられたのです。イエスは裕福な者だけでも、貧しい人だけの救い主でもありません。すべての人の救い主です。会堂長の家にも向かわれます。そして、群衆の中で震えている一人の女性にも向き合われます。
毎週主日に、私たちはこの場所に来て礼拝します。その中には、日本で生まれ育った人がいます。ブラジルから来た人がいます。フィリピンから来た人がいます。スペイン語を話す南米出身の人がいます。日本語が得意な人もいれば、まだ苦手な人もいるでしょう。仕事の立場も違います。家庭の事情も違います。抱えている悩みも違います。けれども、イエス・キリストは、私たちをその違いによって分けては見られません。同じ愛情を注がれました。だから教会は、イエスの愛を映す場所でなければなりません。キリストに招かれた者たちが、神の家族として迎え合う場所です。今日、私たちは合同礼拝をささげています。これは、イエス・キリストが私たちを一つの神の家族として集めてくださっている「しるし」です。ヤイロの娘も、長血の女性も、イエスにとって大切な一人でした。同じように、ここにいる一人ひとりも、主にとってかけがえのない一人です。
Ⅲ. 誰が触れたのか
長血の女性は、イエスの服に触れた瞬間、病が癒やされたことを感じました。
もし私たちがこの場面にいたなら、「よかった。病気が治った。それで話は終わりだ」と思うかもしれません。しかしイエスはそこで終わりにされませんでした。イエスは立ち止まり、「私の衣に触れたのは誰か」と尋ねられます。弟子たちは不思議に思いました。大勢の人が押し合いながら歩いているのです。誰が触れたのかなど分かるはずがありません。けれどもイエスは探し続けられました。なぜでしょうか。
それは、この女性に必要だったのは病気が治ることだけではなかったからです。彼女は十二年間、人々との交わりから離されて生きてきました。誰にも触れることができない。
誰からも触れてもらえない。孤独もあり、寂しさもありました。居場所がないという苦しみがあったのです。だからイエスは彼女を群衆の中に埋もれさせたままにしないで、彼女を探し出し、人々の前に立たせます。彼女は人々に注目されて恐ろしかったでしょう。しかし、彼女は自分の身に起こったことをすべて話しました。イエスは話を最後まで聞いてくださいました。そして、イエスは彼女にこう言われたのです。34節「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
イエスは「娘よ」と家族の一人のように語りかけてくださったのです。考えてみると、この女性の名前は聖書に記されていません。私たちは彼女の名前を知りません。しかしイエスは彼女を「娘よ」と呼ばれました。それは家族としての名前「娘よ」と呼ばれたのです。そして私は、この言葉が今日ここに集まる私たちにも向けられていると思います。
私たちはそれぞれ違います。けれども、イエスは私たちをまず国籍で見ておられるのではありません。そういう違いよりも先に、主は私たちを「娘よ」「息子よ」と呼んでくださるのです。今日、世界では国と国が対立しています。自分たちの利益を守ろうとして争いが起こっています。しかし教会はそれと同じであってはいけません。教会はキリストによって「娘よ」「息子よ」と呼sばれる、神の家族だからです。私たちは同じ天の父を持つ神の家族だからです。長血の女性に語られた「娘よ」という言葉は、今日ここに集う私たち一人ひとりへの主の呼びかけでもあるのです。
Ⅳ. 神の家族は世界の希望
これまでの教会は、それぞれの教会がそれぞれの働きを担うことが中心でした。しかしこれからの時代は、一つの教会だけでなく、複数の教会や異なる文化を持つ人々が協力しながら福音を伝えていく時代になっています。
私は2019年にアメリカのカンバーランド長老教会の総会に出席した際、高座教会出身の佐藤岩雄牧師が牧会する、ルイビル日本語教会で説教をする機会がありました。
その教会は自分たちの礼拝堂を持っていませんでした。現地のルーテル教会の建物を借りて礼拝していました。ちょうどその頃、ルーテル教会の牧師が交代し、新しい牧師としてインドネシア出身の牧師が就任しました。歓迎会ではインドネシアの讃美歌が歌われ、伝統的な踊りも披露されました。私はその光景を見ながら不思議な感動を覚えました。アメリカの教会でインドネシア人の牧師が牧会し、その礼拝堂を借りて、日本人教会が礼拝している。
今、神様は世界中で同じことをしておられます。日本に住む外国籍の方は400万人を超えています。その中には、私たちと同じようにイエス・キリストを主と信じる兄弟姉妹がたくさんいます。今日ここに集まっている私たちの姿そのものが、その証しです。
今、世界の宣教の中心は、自分の国を離れて暮らす人々と、その地域の教会が協力しながら福音を伝えていくところにあります。それは近年の、新しい宣教の形ではありません。実は、最初の教会からそうでした。ペンテコステの日、様々な国から来た人々が福音を聞きました。パウロは国境を越えて教会を建てました。世界に広がりました。今日、私たちが共に礼拝しているのは偶然ではありません。イエス・キリストご自身が、私たちを神の家族として招いておられるからです。神は今、国境を越えて神の家族を造っておられるのです。
お祈りします。


