故郷で受け入れられない主

和田一郎牧師 説教要約

2027年7月5日
エレミヤ書11章18-23節
マルコによる福音書6章1-6節

Ⅰ. 故郷とは何だろう 

今日は、主イエスが故郷ナザレへ帰られた出来事を読みます。
「故郷」という言葉には、不思議な響きがあります。懐かしい場所であり、安心できる場所でもあります。しかし同時に、そこへ帰ることに複雑な思いを抱く人も少なくありません。詩人・室生犀星(むろうさいせい)は歌いました。「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの・・・」ふるさとは遠く離れて思うもの、そして悲しく歌うものなのだ・・・決して帰るところではないのだ・・・遠い都に帰ろう、と歌いました。
人は人生のどこかで、故郷を離れなければならない時があります。自分の歩むべき道のためにそこに離れるのです。そこには希望もありますが、同時に深い寂しさもあります。今日の主イエスも、そのような故郷へ帰られました。

Ⅱ.故郷はイエスを知っていた。

1節「イエスはそこを去って、故郷にお帰りになった。弟子たちも従った」とあります。「そこ」とは、前の章5章の続きですので、会堂長ヤイロの家があり、長血の女性がいた、ガリラヤ湖西岸の町です。先週まで私たちは、信仰によって救いにあずかった人々を見てきました。しかし今日、読む6章では、その対照として、主イエスを受け入れられなかった人々が描かれます。当時の故郷ナザレは、住民全員が顔見知りといえるほどの、小さな田舎の村でした。イエス様はこの村で、大工の父ヨセフと母マリアのもとで育ち、自身も父の跡を継いで大工として働いていました。そして30歳を過ぎた頃、生まれ育った家と村を離れ、「神の国が近づいた」という福音を人々に伝え始めたのです。その家族も住んでいる故郷ナザレへ来ると、安息日になったので会堂に入り教え始めたのです。
当時のユダヤ教の会堂(シナゴーグ)は、現代の教会のような「専任説教者」がいたわけではありません。安息日の礼拝では、旧約聖書が朗読され、その後、その場にいる認められた成人男性が解き明かすのです。律法学者やラビと呼ばれる教師がいれば、彼らが教えていたでしょう。この時、イエス様が聖書を朗読し教えはじめられた。すると人々は驚かれたのです。2節「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。この人の授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か。」
 彼らは何を驚いたのでしょうか?まず第一に、イエス様は正式な学者として教育を受けた人ではなかったからです。
当時、人々に聖書を教える権威ある立場といえば、律法学者やラビでした。ところが故郷の人々にとって、イエス様は「大工」であり、幼い頃から知っている村の一員でした。その人が会堂で、深い知恵をもって聖書を説き明かしたので、3節「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで私たちと一緒に住んでいるではないか」と驚いたのです。さらに、教えだけでなく、力ある奇跡の業の噂も届いていたからです。マルコ5章では、悪霊に取りつかれた人が癒やされ、長血の女性が癒やされ、ヤイロの娘が生き返らされました。そのような噂がナザレにも届いていたのでしょう。人々は「その手で行われるこのような奇跡は一体何か」と驚きました。そして何よりも、あまりにも身近な人だったからこそ受け入れられなかったのです。遠くから来た有名な教師なら尊敬できたかもしれません。しかし、彼らにとってイエス様は「昔から知っている人」でした。幼い頃を知っている。家族も知っている。職業も知っている。だからこそ「この人が神から遣わされた方であるはずがない」と思ってしまいました。「知っているつもり」が、本当のイエス様を知ることを妨げました。ですから、この驚きは信仰の入口にもなり得ましたが、彼らの場合は反対に、不信仰への入口になってしまったのです。
3節の終わりに「人々はイエスにつまずいた。」とあります。つまずきとは、罪を犯すことではありません。神が目の前で働いておられるのに受け入れないことです。神様は私たちの期待通りに働かれるわけではありません。私たちの常識を越えて働かれます。ですが「神様は自分の思い通りに働いてくれだいじゃないか?」という思いが根底にある時「つまずき」ということが起こるのです。つまずきは、神を自分の枠の中に閉じ込めようとする時に起こります。神の働きは、人間の思いを超えている。そのことに気付かない時につまずくのです。
4節「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけである。」
この言葉は、イエス様がご自分の故郷ナザレで拒まれた理由を、短く深く言い表しています。ここでイエス様は、ご自分を「預言者」として語っておられます。預言者とは、単に未来を予言する人ではなく、神の言葉を託されて人々に語る者です。つまり主イエスは、故郷の人々の前に、神から遣わされた者として立っていたのです。ところが、故郷の人々はそう見ることができませんでした。彼らにとってイエスは、「大工」「マリアの子」「自分たちの知っている家の人」でした。あまりにも身近であったために、その方の内にある神の権威を見ることができなかったのです。

「故郷、親族、家族」と言葉が重ねられていることも大切です。これは、拒絶がだんだん内側へ深まっていく表現です。町の人々だけでなく、親族、そして家族の者でさえ、いや家族の者だからこそ、預言者は敬われにくい。つまり、いちばん分かって欲しい近い人々が、かえって分からないことがあるということです。
なぜでしょうか。近い人々は、その人の過去を知っています。子どもの頃を知っています。弱さも知っています。性格も、癖も知っています。だから、「この人が神に用いられるはずがない」と考えてしまうのです。
神様は、身近なところ、見慣れたところ、低く小さく見えるところを通して働かれるのです。何故か私たちは、そこに気付かないのです。そこにつまずきます。「こんな些細な事が神様に用いられるはずがない」「この人が神に用いられるはずがない」と。さらに、この「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけである。」という言葉は、イエス様ご自身の孤独も表しています。主イエスは、身近な人々からも理解されませんでした。それでも主は、神の使命から退かれませんでした。

Ⅲ.故郷を離れて使命を歩む

私たちはこの箇所を読むと「イエス様は故郷の人に認めてもらいたかったのに、拒絶されて残念だった。」と考えがちです。しかし、著者マルコは、ナザレでの出来事を、単なる「失敗談」として書いているのではありません。 ここからイエス・キリストの十字架への道が、よりはっきりと始まるのです。イエス様は、故郷の人々にも福音を伝えるために帰られました。救いの機会を与えるためです。つまり、目的は、自分が受け入れられることではなく、神の御心を行うことでした。ここにイエス様の使命があります。
注目したいのは、その後です。6節の後半には、「それから、イエスは、近くの村を教えて回られた」とあります。さらに続けて、十二人の弟子たちを派遣します。つまり、ナザレで拒絶されたからといって、イエス様は立ち止まりません。
傷ついたからといって、人間不信にもなりません。「もう宣教はやめよう。」とも言われなかった。ナザレでなんとしても理解を求めようと、故郷にしがみ付くこともしなかった。次の村へと向かい、福音はさらに広がっていきます。ナザレで拒絶された出来事は、福音を止める場所ではなく、福音がさらに広がる出発点になったのです。

誰もが故郷を離れて出て行く、ということがあると思います。その故郷はふるさとの町であったり、かつての仕事、かつての生活、かつての自分、であるかも知れません。子どもが巣立ち、夫婦二人だけの生活が始まる人がいます。またある人にとっては、健康だった頃の自分かもしれません。病気や老いによって、これまでの生活を手放さなければならないことがあります。成功や失敗、傷ついた経験、古い価値観や生き方。人は変化を恐れますから、慣れ親しんだ場所へ帰りたいとも思いますが、新しい使命のために出なければならないことがある。
ナザレで受け入れられなかったイエス様は、そこで立ち止まりませんでした。「それから、イエスは、近くの村を教えて回られた」
故郷で拒まれたことで、イエス様が歩みを止めることはありませんでした。むしろ、その歩みはさらに続いていきます。近くの村々へ。ガリラヤ全土へ。そしてエルサレムへ。その道の先には十字架が待っていました。
イエス様は、人々に受け入れられるために歩まれたのではありません。父なる神から託された使命を果たすために歩まれたのです。だから、理解されなくても歩みを止めませんでした。拒絶されても引き返しませんでした。十字架が待っている、その自分の使命をご存じで、その道をまっすぐに進まれました。まさに主イエスご自身が、その信仰の旅路を最後まで歩み抜かれました。それは、私たちを救うためです。
そして、その主は今日、私たちにも「信仰の旅路」を示してくださいます。それは、新しい道です。過去へ戻るためではなく、神が備えてくださった新しい人生へと歩むためです。
「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(コリントの信徒への手紙二5章17節)
そして今、その主イエス・キリストが私たちの、信仰の旅路の先頭に立って歩いていてくださいます。キリストこそが、私たちの新しい道を導く杖です。キリストを見上げながら、新しい命の旅路を、与えられた使命に向かって、心勇ましく歩み続けて行きましょう。お祈りをいたします。