『私の正義』はどうなるの?
宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福⾳書5章21~26節
2026年7⽉5⽇
Ⅰ.理由もなく怒るな
今⽇の御⾔葉は、正直に申し上げて、私にとっては本当に重苦しくのしかかるものでした。この⼀週間、この御⾔葉を読みながら過ごしてきましたが、⾟かったです。
理由は敢えて⾔わずとも、聖書の朗読をお聞きになったときにすでに明らかになっていると思います。
「きょうだいに腹を⽴てる者は誰でも裁きを受ける。」
「きょうだいに『⾺⿅』と⾔う者は、最⾼法院に引き渡される。」「『愚か者』と⾔う者は、ゲヘナの⽕に投げ込まれる。」
私は⼀体何度裁かれ、何度最⾼法院に引き渡され、何度ゲヘナの⽕に投げ込まれなければならないのでしょうか。
⼀度や⼆度では済まないし、それどころか10や20でさえありません。何百回、何千回だって⾜りないかもしれない。かつてそうであった、というのではないのです。
僅かこの⼀週間にだって、正直に申し上げれば腹を⽴てたこともあったし、⼝にすべきでない⾔葉を⼝にしたこともありました。僅かこの数⽇でさえ、再び新しく裁かれなければならない私なのです。
厳しいことです。しかし、現実です。現に私はそういう⼈間です。
この聖書の御⾔葉を聴いて、私と似たような思いを抱いた⼈が⼤勢いたようです。そして、どうやって主イエスの⾔葉を聞きやすくするかという試みがずいぶん昔からされてきました。
聖書というのは、マタイならマタイが書いたオリジナルが⾒つかっているわけではありません。私たちの⼿元にあるのは、写本です。昔はコピー機なんてありませんから、すべて⼿で書きうつして冊数を増やしていました。
そうしている内に、この写本とあの写本とで細かな違いが出てくる。書き間違いのこともありますし、理解を助けるために何かを書き加えたり削ったりすることもあった。実は今⽇のところもそういう箇所のひとつなのです。
22節です。私たちが⼿にしている聖書には「きょうだいに腹を⽴てる者は誰でも裁きを受ける」と書いてあります。実はここのところで、少なくない数の写本には「理由もなくきょうだいに腹を⽴てる者は誰でも裁きを受ける」と書かれている。かなり有⼒な写本の中にも、ここに「理由もなく」と書かれているものがあります。それどころか、そう書かれている写本はかなり多い。
そうすると、「理由もなく」という⾔葉が有る⽅がオリジナルなのか、無い⽅がオリジナルなのかという問題になる。どちらなのでしょう?
私たちが⼿にしている聖書協会共同訳も、前の新共同訳も、その前の⼝語訳も「理由もなく」は採⽤していません。今⽇、マタイが書いたオリジナルには「理由もなく」という⾔葉はなかったであろうという説が有⼒になっています。理由はお分かりになると思います。もしも主イエスはもともと「理由もなくきょうだいに腹を⽴てる者は誰でも裁きを受ける」とおっしゃっていてマタイもそのように書いたのだとしたら、それを写本に書き写す⼈が敢えて「理由もなく」を削った、ということになる。そのようなことはありえるだろうか?むしろ、もともと主は「きょうだいに腹を⽴てる者は誰でも裁きを受ける」と主はおっしゃったのに、それを私たちにとって聞きやすくするために「理由もなく」という⾔葉を付け⾜した、と考える⽅が⾃然ではないでしょうか。
つまり、私たちは「正当な理由」があれば怒るのは仕⽅のないことだし、場合によっては正しいことだとさえ考えているということではないでしょうか。「あの⼈がこんな悪いことをしている。」「あの⼈はこんなに不誠実だ。」
「この⼈は⼈前ではそれらしいことを⾔っているけれど、本当のところとんでもない⼈間だ。」そのようなときに怒るのは正しいし、更には必要なことでさえある。私たちはそう思い込んでいるし、そう思いたいのです。
Ⅱ.これは正当な怒りです
聖書の中にもそういう⼈はたくさん出てきます。例えば、モーセにはアロンという兄とミリアムという姉がいました。⺠数記第12章にこの三⼈の話が出てきます。アロンとミリアムが⽂句を⾔ったのです。「⼆⼈は『主はただモーセとのみ語られたのか。我々とも語られたのではないか』と⾔った。主はこれを聞かれた」(⺠12:2)。つまり、モーセばかりがリーダー⾯して気に⾷わん、という話です。モーセばかりが代表者のように⽴ち、皆に指⽰しているということが許せなかった。主は我々のことをもお⽴てになったのではないか。しかもモーセの妻は我々の同胞ヘブライ⼈ではない、外国⼈ではないか。⼆⼈はそのようなことを並べ⽴ててモーセに⾔いがかりを付けた。
客観的に⾒れば、アロンもミリアムも、弟の活躍を妬んでいるように⾒えます。しかし、本⼈にとってはどうでしょう?聖書を読んでいくと、アロンはモーセよりも弁が⽴つ⼈だったようです。もしかしたら、⺠の中での⼈望もモーセよりも篤かったのではないかとさえ思います。
ミリアムにしても、あまり数は多くありませんが⺠を導いて⽣き⽣きと主を賛美する姿が描かれたところもあります。彼⼥が⼼のどこかで「私だって」と思ったとしても不思議ではないように思います。つまり、アロンとミリアムには、⼆⼈なりの「正当な理由」があったのではないかと私は思うのです。
私たちも同じです。⾃分は正しい、怒るのは当然だ、正当な理由があると思うから怒るのです。
カインがアベルを殺したとき。カインは⾃分が正しいと信じていたことでしょう。サウル王がダビデの命を付け狙って追い⽴てたときも、サウルは、正しい⾃分が謀反⼈を成敗してくれると思ったに違いない。怒る私にはいつでも「正当な理由」があるのではないでしょうか。
Ⅲ.キリストこそ和解の福⾳
改めて22 節をもういちど読みます。「しかし、私は⾔っておく。きょうだいに腹を⽴てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『⾺⿅』と⾔う者は、最⾼法院に引き渡され、『愚か者』と⾔う者は、ゲヘナの⽕に投げ込まれる。」
ここで、主イエスは「きょうだい」とおっしゃっています。もう少し正確に翻訳すると「彼のきょうだいに腹を⽴てる者は…」と、「彼のきょうだい」と⾔っておられます。続くお⾔葉では更にはっきりしています。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、あなたのきょうだいが⾃分に恨みを抱いていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず⾏って、あなたのきょうだいと仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」主イエスはおっしゃるのです。あなたが腹を⽴て、「⾺⿅」「愚か者」と罵っているのは、あなたの兄弟であり姉妹だ、と。あなたに恨みを抱いているその⼈は、あなたの兄弟であり姉妹なのだ、と。
「兄弟」や「姉妹」は、主イエスが結んでくださった関係です。主イエスが私たちを互いの兄弟にしてくださり、姉妹にしてくださいました。「私の兄弟」「私の姉妹」にしてくださった。そのことを思いながら、もういちど今の23,24節を読みます。
「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、(あなたの)きょうだいが⾃分に恨みを抱いていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず⾏って、(あなたの)きょうだいと仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」
これは本当に⼤変なことです。ちゃんとこの⾔葉の通りに、この命令通りに実⾏しようとしたら、⼀体どうなるのでしょう?恥ずかしいことですが、私はもう礼拝に出席できなくなってしまうと思います。もしかしたら、来週からこの礼拝堂は空っぽになってしまうかもしれません。主イエスはこの礼拝堂を空っぽにするためにこのようにおっしゃったのでしょうか?
「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、(あなたの)きょうだいが⾃分に恨みを抱いていることをそこで思い出したなら…」。ここを改めて読んで、思います。
どうして「私のきょうだいが⾃分に恨みを抱いている」ことを思い起こすのでしょう?それは、祭壇に供え物を献げようとしたからです。神に礼拝をお献げしようとしたからです。神の前に出たからです。神がここにおられると気づいたから。私たちは神の前に出て初めて、神が私とこの⼈を兄弟にしてくださった、私とこの⼈を姉妹にしてくださったと知るのではないでしょうか。私たちは神が結んでくださった関係なのだと、神を礼拝するその時に気づくのではないでしょうか。その私の兄弟であり姉妹であるあの⼈が私に恨みを抱いている…。
和解。⾔葉にしてしまえばひと⾔で⾔えてしまいます。
しかし、実際のこととなるとたいへんなことです。⾃分を捨てなければできないことです。⾃分の⼗字架を負ってへりくだらなければできないことです。⼀体私たちにそれができるのか?
しかし、これこそ主イエスが私たちのためにしてくださったことです。ただお⼀⼈、本当の意味で、怒るだけの正当な理由をお持ちの⽅です。しかし、そのお⽅が私たちに対して怒りを燃やされるのではなく、私たちを罵るのでもなく、私たちを恨んで呪い殺すのでもなく、和解してくださいました。私たちをご⾃分の「兄弟」と呼び、「姉妹」と呼んでくださったのです。
私は、今⽇の御⾔葉を聞くときに、本当に私の根源に突き刺さっている罪を思わずにはおれません。私は本当に罪⼈です。
キリストはそういう罪⼈に和解の福⾳を届けに来てくださいました。あなたも、きょうだいと和解できる。他の誰でもなく、キリストが⾔ってくださるのです。「しかし、私は⾔っておく…」(22 節)。ここのところは「私」がとても強く表れた表現です。他の誰でもなくこの私が、と主は⾔われます。他の誰でもなくキリストが和解の⾔葉を届け、和解の⼿を伸ばしてくださいました。
私たちは罪⼈の集まりです。罪深い⼈間が集まっています。だからこそ、いつもキリストの⾔葉に⽿を傾けキリストの福⾳に新しくして頂くのです。神を「天の⽗」と呼ぶ兄弟姉妹として、共に、神を礼拝しましょう。

