振り返れば
潮田健治牧師 説教要約
2026年9月20日
イザヤ書55章8~11節、使徒言行録13章13~26節
Ⅰ.帰ってしまった
今日読まれた個所の冒頭には、こう書かれていました。「ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」
どうしてなんだろうと思います。
聖書では、この個所から、「サウロ」は「パウロ」と、名前が生まれた民族のヘブライ名から、ギリシャ名に変わっています。ここからはギリシャ世界に伝道するのだという意味です。しかも今までは「バルナバとサウロ」と書いていたのに、ここからは「パウロとその一行」「サウロとバルナバ」に変わっている。この前までは、バルナバが先に来ていたのですが、ここから、立場が逆転して行くのです。
それで、ある人は考えます。ヨハネはこれまで自分の従弟のバルナバについて来たのに、この時からリーダーがパウロになった。宣教方針も変わってしまったことで、ついていけなくなったのではないか、と。
ある人は、ホームシックになったのではないかとか、いや、これから先の伝道に恐れをなし、身をひいてしまったのだとか、うがった考え方をする人もいます。
いずれにしても、「帰ってしまった」というのは、後々までしこりが残るような出来事だったのです。特にパウロにとって、ヨハネの行動は、とても受け入れることのできないことであったのです。
13章の初めに書かれていたように、アンティオキアにある教会から彼らは送り出されたのですが、私たちはそこを読んで、送り出されたパウロとバルナバの一行は、万全な態勢で、冷静な判断ができるリーダーたちであったと考えるかもしれません。そうであったかもしれませんが、しかし、非常に人間くさいというか、人間的な思惑が絡みあっていたということが、この出来事から分かるのです。
Ⅱ.著者ルカの思いは
しかし、私たちは、それこそが聖書の面白いところであると考えます。聖書には、何か完璧な人間の、完璧な成功話が書いてあるのではなくて、聖書は、人間の弱さをそのまま書くのです。しかし、そうであるにも関わらず、振り返れば、そこに、そういう人の営みに対して、変わらない神の思い、神のわざが、貫かれているのだと、書くのです。
私たちの教会生活を考えてみると、意見が合わない。色々な面で食い違う。これでは一緒にやっていけない、と言う人もいる。また、今日の聖書のような、「帰ってしまった」というようなこともある。私たちで言えば、他教会に移る、籍を移す、転出する人も出て来るわけです。
送り出すということは残念なことであるに違いない。聖書にも、ヨハネのことがあって、あのパウロであっても、この後もう一緒にやっていけない、と言うのですが、しかしそれで教会が壊れた、困難な状況に陥ってしまったとは言っていない。逆に、伝道が進んで行ったと書いているのです。
それで、私たちは、なるほどそうか、と思うわけです。意見の対立とかあって、ぎくしゃくしながら、不平不満を引きずるのではない。むしろ「別れる」という、違う道に進むこともある、ということです。いつまでも、自分に合わない場にいて、不満をぶつぶつ言って証しにならないよりは、それは主の御手に委ねてしまう。別れることも、あってよいのだと、考えるわけです。そして、いつまでも引きずらない知恵が、求められるのです。私たちは、あの人/この教会がどうのこうの、と言うためにキリスト者になったわけではないのです。
「ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」ということを書いた後ろには、そういうことを読み取っていくことができると思うのです。実は、「帰ってしまった」というこの字自体は、「帰った」「帰っていった」というのが、元の言い方です。「帰ってしまった」というのは翻訳者の意訳で、確かにパウロは、この後も、まだ今日のことを持ち出して議論していることからすると、今日のところは事柄の意外性があった、という意味で「帰ってしまった」と意訳したと思います。しかし、これを書いた著者ルカは、パウロが後になってまだもやもやしていようが、その人間の思いを超えて、ここでは事実の記録を書いた。その記録の書き方としては「帰った」「帰っていった」とだけ言っているのです。
Ⅲ. パウロの説教
さて、ここからパウロの説教を概観します。今日の個所は、説教の前半部分、イスラエルの歴史です。ここで主語は、神です。自分たちの歴史は、「神が」ご自分をあらわした舞台だった、というのです。
この歴史を通してわかるのは、何か完璧な集団、能力の高い人間の成功話ではないということです。旧約聖書に書かれているのは、人間の愚かさであり、弱さなのです。そのような人間の愚かさや弱さがありながらパウロは、イスラエルの歴史を言う時、「神が」と、神を主語にして語り続けていることに、私たちは注目します。神が「選び出し」、神が「導き出し」、神が「耐え忍び」、神が「滅ぼし」、神が「任命し」、神が「与え」、神が「(人を)退け」、神が「王の位につけ」、神が「宣言し」、神が「送った」と、神の働きを語るのです。人間の弱さにも関わらず、そういう人の営みの中に、神の変わらない思いが、貫かれていたのです。
これが、私たちの信仰の言葉だということに気づきます。私たちの歩みに人間の弱さを見ることなく、神が、と私たちは言う。それが私たちの信仰の告白です。
その神のなさったことは、ダビデ王において、頂点に達しています。人々は、繰り返し、繰り返し神に逆らい、神を悲しませるようなことを言い、行動したのです。しかし「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださった」それが恵みであり、福音なのです。
「この救いの言葉は私たちに送られました。」もう、イスラエルという一民族とか、一国家とか、そういうことが大事なのではありません。このイスラエルの歴史を通してあらわされたことは、人間そのものが「頑な」である、ということでありました。人間の罪、そのものでありました。私たちと何も変わらないのです。しかしこの「私たち」に、イエス・キリストは、神の思うところをすべて行う。これが神の約束であり、神の御心なのです。ただ神が、そう約束され、それをされたのです。これが恵みでなくて何でしょうか。これを福音と言うのです。
Ⅳ. 不満を引きずらない
旧約聖書の、民族中心の歴史から離れて、教会の時代になっても、今日のところになりますが、「ヨハネは一行から離れてエルサレムに帰ってしまった。」そのことで、パウロは後からバルナバと激論を交わすほどでした。パウロには理解できないことでした。そういうことが教会の現実には起こるのですが、ルカは、そこを冷静に書いたと思うのです。「帰った」「帰っていった」。
旧約聖書の歴史を見る時に、私たちにはよくわからないことがある。しかし、神を主語にしてみていく中で、私たちには不可解であっても、神はそれをご存じのうえで御心を行われるのだ、と理解することができると思います。
イスラエルという民族としての時代が終わり、今は教会の時代になったのだから、かつての失敗はもうないのだと、少しも言っていない。教会、キリスト者は、神に意図して反逆する罪は、もう犯さないかもしれません、しかし、人間は弱さを持つ者であるに違いないのです。訳が分からないと言って、大激論するかもしれません。そのような人間を、それでも神は、その人間を、ご自身の口として、手として、足として、使われるのです。その確信をもっているから、ルカは、この物語を記録した。事実、彼らをアンティオキアの教会から、このような伝道の働きに送り出したのは、聖霊だったのだと。人間の弱さを問題にした記録ではなく、聖霊を主語にした記録をルカは語り続けていくのです。
相変わらず、一人一人も、そして教会も、何をやっているのか、わからないという具合で、まさに欠けだらけです。恰好つけようもない。しかし、その「土の器」を、神さまがそのご計画の中で、約束どおりイエス・キリストの犠牲を払って選んでくださったのです。お互い訳の分からないことをする、さらに失敗や弱さがあっても、この後、ヨハネが帰ってしまったあと、激論も起こる。しかし、そこから彼らはグループを二手に分けて行動するのです。意見の違いが常に人間の中にありますから、そのために不平や不満や、批判を引きずってはならないのです。出たり入ったりして、不平や不満をひきずるのではなく、分かれるべき時は、分かれるという、きれいさっぱりと判断をするのだと、鼻息を荒くするパウロを横に見ながらルカは、現実を読み取っているのではないでしょうか。
振り返れば、この人も、あの人も、神が選んでくださった器であり、神が使命のために遣わそうとしている器なのです。主語は、常に、神です。ここをずらしたらいけない。私たちの人生の主語は、神。その神さまの選びに、畏れと感謝をもってお応えすることが大事なのです。
Ⅴ. 私たちの記録は
私たちは、様々な節目に際して教会の歴史を振り返る時があります。その時、私たちが過去を振り返るのは、単に昔を懐かしんだり失敗を嘆いたりするためではありません。神が、どのように、そのとき歴史に働いてくださったか、それを知るために、振り返るのです。
高座教会において、その歴史を通し、一回一回の礼拝を通して、神が、その時々必要な牧者を立ててくださった。その牧師を通して「救いの言葉」を送ってくださった。神が、ご自身の言葉をもって私たちを動かしてくださったのでした。
振り返れば 私たちは、お互い神が選んでくださった器であり、振り返れば 弱さを越えて、用いられた器でした。これからも、私たちは、神がご自身の使命のために遣わそうとしている器であるに違いありません。
ですから、私たちが心に留め、記録に残すのは、「こうなってしまった」という人間の感情ではありません。そうではなく、人がこうした、ああしたという事実はあっても、まさに神こそが人の弱さを超えて働いてくださった、という、そのことにほかなりません。こんなにも弱く、情けない私たちの中に、しかし神は働いておられると、今日も、私たちは信じていく者でありましょう。


