天の⽗の眼差しの中で
宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福⾳書6章1~4節
2026年9⽉13⽇≪召天者記念礼拝≫
Ⅰ.天におられる私たちの⽗
今日は召天者記念礼拝としてこの礼拝を献げています。
礼拝では逝去者の名簿を読み上げます。ここにお名前が記されているのは、この礼拝共同体の逝去した会員、さがみ野教会で葬式を行った方、あるいは、別の場所に牧師が伺って葬式を行った方たちです。ここに記されたお一人おひとりのお名前を耳にしたときに、いろいろな思いが皆さんの胸に去来するのではないかと思うのです。
そして、教会が準備した名簿に記されている名だけではありません。皆さんがそれぞれに覚えておられる一つひとつのお名前もあるでしょう。私たちはそれぞれの大切な人のことを今思い起こします。そして、この人に命を与え、それぞれの命を定め、その人生を生かしてくださったのは神様です。神様が私たちの天の父としての慈しみを私たちに示してくださって、私たちを生かしてくださった。
今日、私たちは命を造り、それを祝福してくださる神をご一緒に礼拝しているのです。
ところで、私がさがみ野チャペルで聖書の御言葉の説教をするときには、新約聖書の「マタイによる福音書」というところを読み進めています。最初から順番に少しずつ読んできて、今日たまたま第6 章1 から4 節という箇所にあたりました。私が意図してこの箇所にしたわけではない。しかし、今日の礼拝にふさわしい言葉であると思います。まさに、神様が今日私たちに与え、聞かせてくださっている聖書の御言葉であると私は信じています。
1 節に「天におられるあなたがたの父」と書いてあります。神様のことです。神様は「天におられるあなたがたの父」なのだ、とイエス様はおっしゃいます。神様は、どこか遠くにいて私たちを眺めている方ではありません。何かの崇高な概念とか理念とかでもない。神様は、天におられる私たちの父として私たちを愛し、慈しみ、私たちをよく見て、配慮してくださるお方です。私たちにとっては本当に慕わしい、私たちのお父さんだというのです。
私は月に二度ほど、YMCA の保育園に伺って子どもたちと一緒に神様を礼拝しています。子どもたちは聖書のお話をよく聞いてくれています。だんだんと長く通うようになってきたので、子どもたちも私に親しみを持ってくれるようになってきました。礼拝がある月曜日の朝、保育園に到着すると、子どもたちが自分がしている遊びを見せてくれたり、土日にあった楽しいことをお話ししてくれたりすることがあります。もっと小さな乳児の子どもたちは、最近、私に会ったら自分の着ている服を見せるのがブームになっているようです。とってもかわいい。
子どもにとっては、大人に見てもらうというのはとても大切なことです。「どう?」「これ見て!」「いいでしょう?」「がんばったよ!」とさまざまな気持ちを込めて、近くにいる大人に自分がしていることやチャレンジしたことを一所懸命に見せる。自分を大切にしてくれる保護者や保育者、周りの大人の眼差しの中で子どもの心は育ちます。
「天におられる私たちの父」である神様は、誰よりも私たちのことをよく見ておられます。イエス様はおっしゃいます。「隠れたことを見ておられる父が、あなたがたに報いてくださる」(4 節)。神様は、私たちのことを見張るために見ているのではありません。私たちに報いるために、「よくやった」と言ってくださろうとして、神様は私たちのことをよく見ていてくださるのです。
Ⅱ.やっぱり褒められたい
イエス様はおっしゃいます。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。だから、施しをするときには、偽善者たちが人から褒められようと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」
ここでイエスさまがしているのは、貧しい人や困難に直面した人のために施しをするというときの話です。イエスさまのおっしゃっていることを実際に想像してみると、まるでマンガのような話ではないでしょうか。イエス様の周りでこの話を聞いていた人たちは、思わずクスッとしてしまったのではないかとさえ思います。
8 月初旬に、教会のボーイスカウト・ガールスカウトで熊本地震の募金活動を行いました。大和のイオンモールと中央林間駅に行きました。私もイオンでの募金活動に参加しました。例えば、そうやって子どもたちが募金箱を持って立っていたら、ある人がやって来てお金を入れようとする。すると後ろからラッパを持った人がついてきて、パンパカパーンとラッパを吹き鳴らして喝采の中でその人はお金を入れる・・・なんてこと、本当にありえるのでしょうか?そうでなければ、募金箱と一緒に鐘でも準備しておいて、「〇〇様から△△円頂きまた!(カーンカーン)」と子どもたちがやってみせる。およそ考えられないことです。恐らく、イエス様はわざと誇張しておかしく話しておられるのでしょう。おかしいだろう、こんなことしたら、と。そんなふうに聞くととてもおかしな話です。しかし、笑いながら次第に気づきます。実は、このおよそあり得ない誇張した話は、私のことなのではないか・・・と。
というのも、私もやっぱり褒められたいのです。人から良く思われたいと私だって思います。
私は上品ですから、ラッパを吹いたり鐘をならしたり、銅鑼(どら)を叩いたりしてアッピールすることはないかもしれません。しかし、実を言えば私がしている善い業を人に知ってほしいし、ちゃんと褒めてもらいたいし、自分のことを認めてもらいたいとは思っています。「真夏の暑い日にイオンまで行ったのです。」「二時間も募金をがんばったんです。」ああ、それはがんばりましたね。さすがですね。正直言って、そうやって少しは褒めてもらいたい。
イエス様はマンガみたいにラッパを吹かせてなんておっしゃいますけど、実は私はイエス様が指摘している心をそのまま持っているのです。
Ⅲ.⾃⼰満⾜の話
イエス様はおっしゃいます。「よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている」。人から褒められたい。人に自分を認めさせたい。良く思われたい。実は、自分がそうやって人目を凄く気にして、人からの評価を上げるという報いばかりにかまけてきたことが、イエス様の言葉を聞くときに明らかになってしまうのです。
イエス様はこんなふうにも言われます。「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。」
ここで問うておられるのは、自己満足ということでしょう。自分で自分を褒めてあげる。これも結局は同じで、他人の目にしても、自分の目にしても、褒められること、自分で満足できることを基準にしていると、褒められれば有頂天になり、期待した反応がなければ凄く傷つくか怒るか、です。「自分は認められていないんだ」「私の頑張りなんて他人にはどうでも良いことなんだ」「当たり前としか思われていないんだ」。
そんなときに、イエスさまは「褒められようなんて思っちゃいかん」とおっしゃったのではありませんでした。
そうではない。こう言っておられます。
「あなたの施しを隠すためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
あなたがたの施し(善行)は隠してしまいなさい。なぜなら、その隠れたことを神がよく見ておられる。神があなたを褒めてくださるのだ。そう、主イエスさまは、神様があなたを褒めてくださる、と言われます。天の父として、神はあなたをよく見ておられる。よく見て、あなたの隠れた善行、施し、愛の業を神様が褒めてくださる。
そういう神様の天の父としての慈しみの目があなたに向いている、とイエスさまは言われるのです。
Ⅳ.天の⽗の眼差しの中で
私たちは、誰の眼差しの中で生きているでしょうか?
人から褒めてもらえるかどうか。自分で自分に満足できるかどうか。そういう眼差しでしょうか?
私は、これはとても孤独な生き方だと思います。人の評価が基準だと、自分の意にそぐわない声はやがて聞こえなくなります。あるいは、そういう声を聞けなくなってしまいます。自己満足が基準だと、他人の気持ちは次第に意味を持たなくなります。自分で自分を認められるかどうかが基準なので、他人がどう受けとめたのかとは関係のないところでの自分の目しか残らなくなります。いずれにしても、それはとても孤独な考え方ではないでしょうか。
慈しみに満ちた神様は、天の父として私たちを見ていてくださいます。私たちを監視しているのではありません。いつ失敗するか、悪いことをしやしないかと見張っているのではないのです。愛と慈しみ満ちた目をあなたに注いでおられます。
今日、私たちがその名を覚えている人たちも、そういう神様の慈しみの眼差しの中で生きました。人生の最期の日まで。
あなたにも、神様は父としての慈しみの眼差しを向けておられます。私たちは、人の目や評価の中ではなく、慈しみに満ちた天の父の眼差しの中で、今、生かされているのです。

