心の中から

和田一郎牧師 説教要約
2026年9月13日
イザヤ書46章3-4節
マルコによる福音書7章14-23節

本日は敬老感謝礼拝です。長い年月を歩んでこられた方々を敬い、その存在とこれまでの働きを神様に感謝いたします。年齢を重ねるということは、外見や体が変化することだけではありません。心の中に多くのものが積み重なっていくことでもあります。楽しかった思い出、愛する人との出会い、悲しい別れ、果たせなかった願い、そして神様に支えられてきた記憶が、心の中に刻まれていきます。
今日、イエス様は私たちの外側ではなく、「心の中」に目を向けておられます。人間の心から何が出て来るのか。そして、神様に支えられた心から何が次の世代へ手渡されていくのか。御言葉に聞いてまいりましょう。

Ⅰ.外側ではなく、心をご覧になる主

イエス様は群衆を呼び寄せて言われました。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」この出来事のきっかけは、イエス様の弟子たちが、当時の宗教的な慣習に従った手の洗い方をせずに食事をしていたことでした。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、その様子を見て弟子たちを批判しました。ここで問題となっているのは、宗教的に定められた仕方で手を洗ったかどうかによって、人を清い人と汚れた人とに分けてしまうことでした。
私たちも人の外側を見て判断します。服装、肩書、健康状態、仕事ができるか。そのような目に見えるもので、人の価値を決めてしまうことがあります。年齢についても同じです。世の中では、若く、元気で、多くのことができる人が価値ある存在と見られがちです。しかし、神様は人間の価値を、若さや能力によってお決めにはなりません。敬老感謝礼拝は、単に長寿をお祝いするだけの礼拝ではありません。長い人生を歩んでこられた一人一人が神様に愛され、今も神の家族にとって、かけがえのない存在であることを共に確認する礼拝です。

Ⅱ.人を汚すものは、心の中から出て来る

イエス様は弟子たちに、さらに詳しく説明されました。「中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る」と。そして、淫らな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、欺き、好色、妬み、冒瀆、高慢、愚かさを挙げられました。ずいぶん厳しい言葉です。しかしイエス様は、一部の特別に悪い人について語っておられるのではありません。これは私たちすべての者の心について語られている言葉です。
私たちは、自分の不機嫌や怒りの原因を、外側に求めます。「あの人があんなことを言ったから」「自分は不当に扱われたから」と考えます。確かに、外から受ける言葉や出来事によって傷つくことはあります。しかし、そのとき心の中から出て来る憎しみや妬み、高慢、赦せない思いについて、イエス様は私たち自身に問いかけておられます。
年齢を重ねれば、自動的に心が清くなるわけではありません。長い人生経験は人を豊かにしますが、その一方で、過去の傷、後悔、寂しさ、頑なな思いが心に残ることもあります。
「あの人のことだけは赦せない」「今さら自分は変われない」「もう自分は必要とされていない」。そのような思いが心を閉ざし、人とのつながりを遠ざけてしまうことがあります。
イエス様は、それを責めるために、心の中が汚れていると話されているのではありません。私たちの傷ついた心を癒やすために、ご覧になるのです。病気を治すためには、まず病のある場所を知る必要があります。イエス様は、私たちの心の奥を知っておられる方です。

Ⅲ.年老いるまで、神が背負ってくださる

それでは、自分の心の中に罪や汚れがあることを知った私たちは、どうしたらよいのでしょうか。自分の力で心を清くしようとしても、なかなかできません。外側を整えることはできても、心の奥を自分で変えることは難しいのです。そこで語られるのがイザヤの言葉です。
「あなたがたが年老いるまで、私は神。あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。私は造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。」イザヤ書46章には、人に運んでもらわなければ動けない偶像と、ご自分の民を背負ってくださる神様との対比があります。人間が神を背負うのではありません。神様が人間を担い、背負い、救い出してくださるのです。
長い人生には、自分の力だけでは背負いきれないものがあります。病気、愛する者との別れ、過去への後悔、老いることへの不安があります。自分の罪や心の傷も、自分だけではどうすることもできません。しかし神様は、「自分の力で何とかしなさい」とは言われません。
「あなたが年老いるまで、私は同じ。白髪になるまで、私は背負う」と約束してくださいます。若いときだけではありません。元気に働けるときだけでもありません。力が弱った時も、地上の生涯を終えるときまで、神様は同じお方として私たちを背負ってくださいます。
その神の愛を最もはっきりと示されたのが、イエス・キリストです。主イエスは、私たちの罪と重荷を担い、十字架に向かわれました。私たちは自分の力で心を清くしてから神様のもとへ行くのではありません。汚れも、傷も、後悔も抱えたまま、主のもとへ行くのです。
主に背負われ、赦され、愛されていることを知るとき、閉ざされていた心が開かれます。そして、その心の中から、これまでとは違うものが生まれ始めます。

Ⅳ.一人の信仰者の心から生まれたもの

イエス様は、人の心の中から悪いものが出て来ると語られました。しかし、神様の恵みに触れられ、清められた心からは、祈りや感謝、優しい言葉、そして次の世代を生かす信仰の証しが生まれます。
私には、忘れることのできない一枚の手紙があります。私の母が天に召されたのは、1991年のことでした。その前夜祈祷会にK姉という母の信仰の友が来てくださいました。そして翌月、当時25歳だった私に一通の手紙を送ってくださいました。その手紙には、母が信仰一筋に歩んだこと、そして私にも母の信仰を受け継いでほしいという願いが記されていました。
「信仰を持つことは片寄ったガチガチの生活を意味するものではありません。真の自由がその中にあるのです。苦しい時、困難に出会った時、正しく導いて下さるお方は、今も生き給う、主イエス・キリストです。」
そして、私と家族が主にある喜びと感謝に満ちた生活を送ることができるよう、祈らずにはいられない、と書いてくださいました。それから年月が過ぎ、私は友人の結婚式をきっかけに、教会へ通うようになりました。そして導かれて洗礼を受けた教会が、高座教会でした。そこには、あの手紙を書いてくださったK姉がおられたのです。K姉は私に「あなた和田さんの息子さん?」と声をかけてくださいました。そのとき私は、「あの手紙をくださった方だ」と気付きました。それから、私が車でK姉を迎えに行き、一緒に教会へ通う信仰生活が始まりました。
K姉という年老いた信仰者が教会にいてくださることによって、私は、天に召された母と今もつながっているように感じることができました。母の信仰と祈りが、K姉を通して私へと手渡されているように思えたのです。それは、私にとって本当に感謝なことでした。K姉はその後、天に召されましたが、神の家族のつながりは、年月を越え、地上の別れをも越えて受け継がれていくのだと思います。
イエス様は、私たちの心の中をご覧になります。そこには、悪い思いも、赦せない思いも、誰にも言えない傷もあります。しかし、それだけではありません。主に赦され、支えられた心からは、人を生かす言葉、誰かを覚える祈り、世代を越えて受け継がれる信仰が生まれます。
私たちは皆、年を重ねていきます。できていたことが、できなくなる日も来ます。しかし、どれほど年を重ねても、神様の前で必要とされなくなる人はいません。神様は言われます。
「あなたがたが年老いるまで、私は同じ。白髪になるまで、私は背負う。」
神様に背負われてきた人の心から語られる言葉には、重みがあります。神様に支えられてきた人の祈りには、次の世代を支える力があります。私たちも、心の中にある罪や傷を主に委ねたいと思います。そして、主の力によって新しくされた心から、感謝を語り、祝福を祈り、人を生かす言葉を届けていきたいと思います。
その言葉がいつ実を結ぶのか、私たちには分かりません。しかし神様は、一人の祈りも、一言の励ましも、決して無駄にはなさいません。神の家族の中で受け取った恵みを、心の中から、次の世代へと手渡してまいりましょう。
お祈りします。