愛し得ないからこそ敵なのです

宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福音書5章43~48節
2026年9月6日

Ⅰ.神は愛です

今年の夏は、本当にいろいろなことがありました。自然災害も多かったです。地震や豪雨などが、日本でも海外でもいくつもありました。〇人が犠牲になったというニュースを目にすると、どうしてもその数字にばかり目が向いてしまいます。犠牲になった方が多いとそれだけたいへんなことだ、という印象も強くなります。ただ、人の命は量でははかれないものです。たった一人の人の死も、たくさんの人の死も、当事者にとっては同じ事です。たった一人しかいない、かけがえのない一人が生涯を終えることです。その人を愛する人にとっては耐えがたい悲しみです。もちろん災害だけではないでしょう。病気でも、老衰でも同じです。そして、そのようなことに直面するとき、今さらのように命の大切さを思わされるのではないでしょうか。
私たちは、悲しい出来事の中にあっても神が私たちを愛してくださっていることを信じています。私たちに命を下さった方は、永遠の命への祝福をもって私たちを愛していてくださる。私たちカンバーランド長老教会は、信仰告白の冒頭にヨハネによる福音書第3章16節の御言葉を掲げています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」私たちに一番大事なことはこの一句に尽きる。それが私たちの信仰です。神は、私たちを、皆さんを、この世を愛しておられる。そうであるからこそ、私たちの救いは神の愛を宣言するキリストの言葉にある。だから私たちはどのようなときにもキリストの言葉に耳を傾けます。

Ⅱ.「隣人を愛し、敵を憎め」?

今日の43節にこのように書いてあります。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。」
ここに「『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている」と主イエスはおっしゃっていますが、改めて考えると、一体旧約聖書のどこにそのような言葉があるのでしょうか?確かに、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19:18)とは書いてあります。しかしそれに続く「敵を憎め」とは、少なくとも同じ箇所の続きを読んでも書いてありません。実は、旧約聖書を探してみても「敵を憎め」という戒めはないのです。
私たちの教会では、日本語の聖書として「聖書協会共同訳」という翻訳を使用しています。これには「引照付」という、聖書の言葉を理解するための参照先が書かれているものがあります。件の「敵を憎め」という言葉にも引照がついています。二つの聖書の言葉が挙げられています。それがとても興味深い。
一つ目はこれです。「もし、あなたの敵の牛、あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ずその人のもとに返さなければならない」(出23:24)。
二つ目はこれです。「エジプト人を忌み嫌ってはならない。あなたはその地で寄留者だったからである」(申3:8cd)。
どちらにも「敵を憎め」などとは書かれていません。むしろ、内容としては「敵を愛せよ」です。敵を憎むのではなく愛せ、と言っているのです。
それならどうして「あなたがたは『敵を憎め』と聞いているね」と主イエスはおっしゃったのでしょうか。その理由は一つしか考えられません。実際人々がそう聞いていたからです。「隣人を愛し、敵を憎め」。いつの間にか聖書を書き換えてしまったのです。なぜか?「隣人を愛し、敵を憎め」の方が自然だからです。「隣人を愛し、敵をも愛せ」より、普通で合理的な言葉だからです。いつの間にか私たちは聖書を書き換えてしまったのではないか。主イエスが指摘しているのはそのことではないでしょうか。

Ⅲ.限定された愛

子どもが幼稚園に通っていた頃、自転車の後部座席に子どもを乗せて、娘と一緒に登園したときのことです。交差点で信号待ちをしていたら、交差する道路から颯爽と進んできた自転車に乗っていた人が転んでしまった。あっと思っていたら、そこを通りかかった車に乗っていた人がすぐに脇に停めてその人のところへ駈け寄り、介助してあげたのです。
私はただその様子を見ていただけの自分を恥じながら、「憐れみ深いサマリア人の譬え」を思い出していました。ルカによる福音書第10章25節以下のあの譬え話です。ぜひそれぞれにもう一度お読みください。譬え話の中身をここで繰り返すことはできませんが、今日注目したいのは、あの話を主イエスがなさることになった発端は何だったのか、ということです。
ある律法の専門家が主イエスに尋ねました。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」どうしたら私は神様に愛されますか、と尋ねたということだと思います。それに対して主イエスはお答えになります。「律法には何と書いてあるか?あなたはそれをどう読んでいるのか?」すると彼は自信をもって答えました。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」まさに「隣人を自分のように愛しなさい」という、今日私たちが聞いているのと同じことが問題になっています。するとイエスはおっしゃいました。「正しい答だ、その通りだ!あなたが言った通りにしたら良い。」しかし彼はその答に満足しませんでした。むしろ責められたと思ったようです。自分を正当化するために彼は言いました。「では、私の隣人とは誰ですか。」それで主イエスがなさったのが、あの「憐れみ深いサマリア人の譬え」です。敵であるユダヤ人を愛したサマリア人の話です。この人は「愛すべき隣人」を限定しませんでした。目の前にいる人を見て、いても立ってもいられずに駈け寄ったのです。
この律法学者は、「では、私の隣人とは誰ですか」と言って自分が愛すべき人の範囲を決めようとしました。当然と言えば当然です。誰も彼も際限なく愛して回ることなんて、実際にはできない。私たちはそう思う。私の愛の範囲はここまでだ、自分を守るためにも家族を守るためにも。私たちはそう考えて、自分の愛すべき相手を限定します。それどころか、愛しているはずの相手への愛だって甚だ限られてものに過ぎないのかもしれません。子どもへの親の愛だって、自分の思い通りにならないときにはどんなに乏しく惨めなものになってしまうか今さらのように思い知らされます。夫婦の間でも同じです。いや、そうやって親子とか夫婦というところで愛の問題を考えようという姿勢そのものが、今日、主イエスが問題になさっていることなのかもしれません。
48節には「だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全なものとなりなさい」と言われています。こういう言葉を読むと、どうしても思ってしまいます。「完全」なんて言われると、あまりにもほど遠い。私には完全な愛なんて無理だ。完全だなんてとんでもない。いや、不完全でも愛せていれば良いのかもしれない。しかし、私のどこを探しても愛が見つからない。
しかし、そんな私のために、神は太陽を昇らせ、雨を降らしてくださっているのです。同じように神様は、私が「敵だ」と顔を思い浮かべる人、あるいは目の前でイヤな事をしたり言ったりしてくる人、二度と顔も見たくない人にも太陽を昇らせ、雨を降らせておられるのです。神様の愛の途方もない大きさと、私のどうしようもない小ささに、苦しくなってしまいます。

Ⅳ.神は敵を愛された

村上伸という牧師がおられました。かつて代々木教会の牧師として、あるいは東京女子大学の教授として仕えた先生です。村上先生がとても面白いことをおっしゃっていました。そもそも、敵とか味方とかの区別をすること自体をイエスは嘲笑っておられるのではないか。そのような主旨の言葉です。誰かを味方とし、他の人を敵と考える。そもそもそういう考えそのものが間違っている、ということではないか。
なるほど、と思います。皆さんもそう思われるかもしれない。しかし、私はなるほどと思いながらも、それはちょっと違うのではないか、と申し上げたい。
ローマの信徒への手紙第5章にこのよう書かれています。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(8〜10節)。
聖書は明確に言います。私たちはかつて神の敵だった。神に敵対して生きてきた。そして、神に敵対して生きてきたということこそが「罪人」という言葉の意味です。それでは何をもって神に敵対してきたのか。隣人を愛さないことです。「私が愛すべき隣人とは誰のことですか」と言って限定してみせることによってです。「隣人を愛し、敵を憎め」といつの間にか聖書を書き換えて、愛のない自分を正当化することによってです。そうやって私たちは敵を愛することを最初から諦め、愛することを否定し、愛そのものである神を憎んで、神の敵として生きてきたのです。
そんな私を神は愛してくださいました。神の敵である私を愛してくださった。敵を、敵のまま、神が愛してくださった。ご自分を憎んでいる者を、神が愛してくださったのです。
「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」というのは、主イエス様ご自身がしてくださっていることです。主イエスは十字架の上でおっしゃったのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と。
主イエスは、私たちを同じ祈りへと招いておられます。敵のための祈り、神の子の祈りへと。「あなたも私と共に祈れる」と、主は私たちを今日、招いておられます。