神の言葉と人の言い伝え
和田一郎牧師 説教要約
2026年9月6日
イザヤ書29章13-16節
マルコによる福音書7章1-13節
はじめに
今日本の芸道では「守破離」という考え方があります。「守」は師匠から教えられた型を守る段階、「破」は型を十分に身につけた上でそれを発展させる段階、「離」は型を意識しなくても自由に表現できる段階です。しかし、初めから型を学ばず、自分の思うままに振る舞うことは、真の自由ではありません。それは「型破り」ではなく、「型なし」だと言われます。
礼拝や信仰生活にも型があります。祈り、賛美、聖書朗読、説教といった礼拝の形は、信仰を次の世代へ伝え、私たちを神様へと導くために受け継がれてきました。しかし、型を守るだけで心が神様から離れてしまえば、信仰は形式的になります。反対に、型をすべて退け、自分の感情や好みだけで神様を礼拝しようとすれば、信仰の土台を失ってしまいます。それでは、何が私たちの信仰の根本となる「型」なのでしょうか。それは、人間の好みや言い伝えではなく、神の言葉です。
Ⅰ.神の言葉という「型」
ヤコブの手紙は、次のように語っています。
「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。」(ヤコブ1:25) 律法や規則と聞くと、人間を縛り、自由を奪うと考えがちです。しかしヤコブは、神の律法を「自由の律法」と呼びます。神の律法は、人間を窮屈にするためではなく、罪の力から解放し、神様に造られた本来の姿に導くものだからです。
魚は水の中にいることで自由に泳ぎ、列車は線路の上を走ることで目的地に向かうことができます。同じように、人間は神の言葉に従うことで、本当の自由を与えられます。神様を愛し、隣人を愛し、自分に与えられた命を喜んで生きる自由です。礼拝にも一定の型があるからこそ、私たちはその日の感情や時代の流行に左右されず、世代を超えて信仰を受け継ぐことができます。問題は、型があることではありません。その型が神の言葉に根差しているか、また、その意味が生きているかということです。
Ⅱ.神の言葉から離れた「型」
ファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエス様の弟子たちが洗わない手で食事をしているのを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まないのですか」と問い詰めました。問題となった手洗いは、衛生上の習慣ではなく、宗教的な清めの儀式でした。このような言い伝えも、初めは神の律法を大切に守るために作られたものだったのでしょう。しかし、いつしか手を洗う行為そのものが、神の言葉以上の権威を持つようになりました。
そこでイエス様は、イザヤ書を引用されます。
「この民は唇で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしく私を崇めている。」
彼らには、細かな宗教的形式がありました。その一つが食事前に手を洗うことです。しかし、その手を洗うことを通して神様に忠実になるのではなく、手を洗っている自分の正しさを誇り、洗っていない人を裁いていました。
「型」があっても、その基礎である神の言葉から離れてしまえば、それは真実の型ではありません。外側の形は整っていても、土台が失われています。その意味では、ファリサイ派の人々は伝統を守る「型の人」に見えながら、実際には神の律法という本来の型を失った「型なし」に陥っていたと言えます。
ただし、ここでいう「型なし」とは、彼らに宗教的形式がなかったという意味ではありません。むしろ形式は数多くありました。しかし、神を愛し、隣人を愛するという律法の本質から離れていたため、その形式が中身を失っていたということです。
Ⅲ.神の戒めを無にする言い伝え
イエス様は、神の言葉より人間の言い伝えを優先している具体例として、「コルバン」を取り上げられました。モーセの十戒では「あなたの父と母を敬いなさい」と命じておられます。これは、父母に丁寧に接することだけでなく、年老いた父母を支えることです。ところが、自分の財産について「コルバン」、すなわち「神への供え物です」と宣言すれば、その財産を父母のために使わなくてもよいという人間の言い伝えがありました。一見すると、親よりも神様を優先する、信仰深い行為に見えます。しかし実際には、神様にささげるという言葉を利用して、父母を支える責任から逃れていたのです。
そこでイエス様は、「こうして、あなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって神の言葉を無にしている」と指摘されました。
ファリサイ派の人々の問題は、単に伝統を大切にしすぎたということではありません。人間の言い伝えによって、神様の戒めを実質的に無視したことです。彼らは、神の律法という基本の型を守った上で、それを深めたり発展させたのではありません。神の言葉から離れ、人間の都合に合わせた別の型を作ってしまいました。それは「型破り」ではなく、神の言葉を土台としない「型なし」でした。
神の言葉は、父母を敬い、隣人を愛し、弱い者を支えるように命じています。それなのに、人間の言い伝えが、その愛の責任から逃れる口実となっていました。それは神の御心にかなったものではありません。
Ⅳ.イエス様に従う「守破離」
それでは、神の言葉に従うとは、どういうことでしょうか。それは、伝統や礼拝の型をすべて捨てることではありません。また、規則や秩序をなくして、それぞれが好きなように信仰生活を送ることでもありません。人間が作った伝統や習慣を絶対的なものとせず、それらが神の言葉に仕え、神を愛し、隣人を愛することへ私たちを導いているかを問い続けることです。
このことを「守破離」に重ねるなら、まず私たちは神の言葉を聞き、その教えを「守る」ことから始めます。御言葉の理解を深めて、その意味を日々心に刻みます。次に、ただ聞いて終わるのではなく、日々の生活の中で行います。知識だけの信仰を「破り」ます。そして最後には、伝統的にはやっていない、他人はやらないが、御言葉に従って自分の賜物を生かすことができる自由によって世の光となります。強制されなくても、神を愛し、隣人を愛することを喜んで選び取る自由へ導かれます。これを「離」と表すことができるでしょう。
しかし、この「離」は、神の言葉から離れることではありません。御言葉を必要としなくなることでもありません。型が自分の内側にまで深く身につき、型の意味を自由に生きるようになることです。神の言葉を外から強勢される規則としてではなく、義務感でもなく、心から喜び、行う者となることです。それこそ、ヤコブが語る「自由の律法」に生きる姿です。
その完全な姿を、私たちはイエス様に見ることができます。イエス様は言葉だけで父なる神を敬われたのではありません。その心も言葉も行いも、すべてが父なる神に向けられていました。イエス様は神の御心に完全に従いながら、人々を愛し、病む人に触れ、罪人と食事をし、ました。そして十字架に至るまで従い、私たちを愛し抜いてくださいました。イエス様において、神の御心に従うことと、人を愛することとは一つでした。私たちは、聖書の御言葉を聞いて、それを他人を裁くための物差しにしてしまうことがあります。しかし、神の言葉は、まず私自身に向けられています。「あの人はなぜ守らないのか」と問う前に、「私は守っているだろうか?私の心は神様に向いているだろうか」と問われるのです。
結び
信仰にも型があります。食事の時に祈ること。日曜日に礼拝に行くこと。奉仕をすることも型といえます。礼拝にも、祈りにも、賛美にも型があります。その型には、信仰を次の世代へ伝えるための大切な意味があります。しかし、型を守ることだけで、心が神様から離れてしまえば、信仰は形式だけになります。反対に、型を軽んじ、自分の感情や好みだけを基準にすれば、信仰は神の言葉という土台を失った「型なし」になります。大切なのは、古いか新しいかではありません。型があるかないかでもありません。その型が神への愛と、隣人への愛へ導いているかどうかです。聖書全体は語ります。「そこに愛はあるのか?」と。
神の言葉は、私たちを縛る檻ではありません。罪と自己中心から私たちを解放し、神様に造られた本来の姿へ導く「自由の律法」です。私たちはその御言葉を一心に見つめ、聞いて忘れる者ではなく、行う者となりたいと思います。心から神様を愛し、その愛を日々の生活の中で表す。そのような自由な信仰へ、 イエス様に導いていただきましょう。お祈りします。


