「⽬には⽬を、⻭には⻭を」の先にあるもの

宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福⾳書5章38~42節
2026年8⽉30⽇

Ⅰ.うちがわからみいりたい

詩人・八木重吉がこのような詩を残しています。
この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳そして眼のようにかんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりこみたい
本当に、そのように聖書の御言葉を見入り、また聞き取りたいと願います。
今日の聖書の御言葉で主イエスがおっしゃっていることは、理屈を付けて解説してみせようと思えばいくらでもできるだろうと思います。しかし外側から眺めて聖書について論じるのではなく、聖書の内側に入ってこれに見入り、感じ取り、自分の体の一部として入り込みたい。そうやってでなければ聞くことのできない御言葉であろうと思います。
主イエスは言われるのです。「しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。あなたを徴用して一ミリオン行けと命じる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。」あまり細かい説明をする必要もなく、私たちにもすぐに意味が分かります。分かりすぎるくらいによく分かる言葉です。そのために素直に聞きにくくさえあるのです。
ただ、少しだけ補足します。例えば、「誰かがあなたの右の頬を打つなら」と主イエスは言われます。右利きの人が平手で頬を打ったら、普通は相手の左頬を打つことになります。そうとすると、「誰かがあなたの右の頬を打つ」としたら、それは平手ではなく裏拳で、つまり手の甲で打ったということになる。古代イスラエルでは手の甲で打つというのは酷い侮辱を意味したのだそうです。つまり、ただ殴られたというだけではなく、この上ない屈辱的な仕打ちを受けた、ということです。
あるいは「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」とも言われていますが、これはおそらく着ている物が借金の担保になっていて、返済できずに下着が奪われたということです。そんなときには自分から下着を奪う者に下着どころか上着をも与えよ、と言われるのです。実は旧約聖書の律法では、借金のかたとして上着を奪うことは禁じられていました。もしも上着を取るなら日没までに返さなくてはならない。パレスチナは日が沈むと突然寒くなる。上着は夜寝るときには毛布の役割を果たした。上着がなければ寒くて寝られないのです。大切なものを奪おうとする相手にはもっと大切なものをも与えよと主は言われます。
更に「あなたを徴用して一ミリオン行けと命じる」とも主イエスは言われます。徴用というのですから、明らかに相手は自分よりも強くて立場が上です。そういう人が理不尽な要求を無理強いしてくる。そうしたら、相手の要求以上のことをしてあげなさい、と言うのです。
私を侮辱する人。私の大切なものを奪う人。私に無理な要求を押しつけてくる人。
そう思うと、心がチクチク痛まないでしょうか。あなたにも思い浮かぶ顔がありませんか?それこそ、実は、主イエスが意図していたことではないかと思います。主イエスは私たちの話をなさっているのです。今日の主イエスの言葉は本当に痛い言葉、聞きたくなかった言葉、苦しい言葉ではないでしょうか。

Ⅱ.エスカレートする復讐⼼

こういう言葉を聞かされたとき、どうしたら良いのでしょう?
こんな反応もできるかもしれません。確かに主イエスがおっしゃるとおりにできたら良いけれど、あんまりにも非現実的ではないか?私は、侮辱してくる人が本当に憎い。大切なものを奪われたら許せない。理不尽な要求をしてくる人の顔なんて正直言って二度と見たくない。
確かにイエスさまの言葉はすごい言葉だとは思うが、理想論ではないか。きれいすぎて誰にも到達できないのではないか?
あるいは、このように言うこともできるかもしれません。こういうことは、個人の倫理としては高潔で良いかもしれない。出来るか出来ないかは別として、よいものだろう。しかし例えば国家のような場面を考えると、必ずしもこうはいかない。「復讐しない」という個人的な理想を掲げて国全体を危険にさらすわけにはいかない。あの国、この国に取り囲まれて厳しくなっている我が国の安全保障環境を考えると、このようなイエスの言葉の通りにするのは却って無責任なことではないか。
そんな時に私たちの目に飛び込んでくるのは、「目には目を、歯には歯を」という言葉です。旧約聖書の律法に出てきます。もしも誰かの目を傷つけてしまったら、自分の目で償わなければならない。もしも誰かの歯を傷つけてしまったら、自分の歯で償わなければならない。逆から言えば、目を傷つけられたら相手の目を求め、歯を損なわれたら相手の歯を求める、ということになります。そうすると、「やっぱり聖書も復讐を容認しているではないか」「やられたらやり返すのが当然だ」と言えそうな気がします。
ところが、これはこの言葉を説明するどの本を見てもそう書いていることですが、「目には目を、歯には歯を」という言葉は本来はそのように復讐を正当化する言葉ではないようです。むしろ、復讐に制限をかける言葉だった。目なら目だけ。歯なら歯だけ。それ以上を求めてはいけない。
ところが私たちの「現実」は、目に対して目だけ、歯に対して歯だけでは納得できていないのです。兄弟げんか一つだってそうです。悪口を言われれば相手を突き飛ばします。突き飛ばされればグーでぶん殴ります。殴られれば蹴飛ばします。際限がない。やられたらやり返すどころじゃない。倍返しです。
もしも私たちが本当に旧約聖書に書かれているとおりに「目には目を、歯には歯を」を本気で守っていたなら、世の中の戦争はもう全部終わっているはずだったのではないでしょうか。ところが私たちの復讐を望む心には際限がありません。目を損なわれれば、目も耳も鼻も要求し、歯を損なわれれば顎を砕き手の骨を折らないと気が済まない。倍返ししないと溜飲が下がらない。それが私たちです。

Ⅲ.キリストを⾒つめよう

それなのに、主イエスは更にその先に進んで行かれるのです。侮辱する者には頬を向け、奪い取る者には更に与え、理不尽にも無理強いしてくる者と一緒に歩け、と主は言われるのです。
私たちが自分のことを見つめているかぎり、もう途方に暮れて絶望するしかありません。このようなことは私たちがどんなに心がけたり努力したりしても、絶対に無理です。不可能です。ですから、私たちはもう自分を見つめるのはやめましょう。そして、憎らしい相手に目を注ぐのももうやめましょう。自分に目を注いで「もっとがんばらなくちゃ」と叱咤激励しても絶望するしかないし、憎い相手をどんなににらみつけても結局は憎しみが増すだけです。そうではなく、私たちの目をイエス・キリストに向けましょう。聖書は言います。
主なる神は私の耳を開かれた。
私は逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中を差し
出しひげを抜こうとする者には頰を差し出した。
辱めと唾から私は顔を隠さなかった。
(イザヤ書50:5-6)
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
痛みの人で、病を知っていた。
人々から顔を背けられるほど軽蔑され
私たちも彼を尊ばなかった。
彼が担ったのは私たちの病
彼が負ったのは私たちの痛みであった。
しかし、私たちは思っていた。
彼は病に冒され、神に打たれて
苦しめられたのだと。
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ
私たちの過ちのために打ち砕かれた。
彼が受けた懲らしめによって
私たちに平安が与えられ
彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
(イザヤ書53:3-5)
どうしてこのお方は苦しまれたのでしょうか?私たちが打ったからです。私たちがこのお方を軽蔑し、痛めつけ、刺し貫いたのです。
私たちは、侮辱とか奪われるとか理不尽な要求をされると聞くと、どうしても自分を被害者の側に置きたくなります。自分がこれまで遭ってきたあんな目こんな目を思わないわけにはいかないし、その痛みは今でも私たちの中でうずいています。しかし、キリストを見入るときに気づくことは、実は私は加害者だった、ということです。実は私がキリストを侮辱し、私がキリストから奪い取り、私がキリストを理不尽に扱って自分の要求を押し通してきたのです。
不思議なことに、このお方がそうやって受けた傷が私たちを癒やすのです。私たちはこのお方の傷によって救われたのです。
キリストは今日私たちに言われます。「あなたも、復讐せずに生きられる」と。キリストが私たちを自由にしてくださいました。怒りから、憎しみから、キリストが私たちを解放してくださいました。
キリストを見上げましょう。私が侮辱した方を。私が奪い取った方を。私が理不尽に利用した方を。その傷であなたを救ってくださったお方を。このお方のもとに、私たちを怒りから解き放つ、真の自由があるのです。