天の⽗があなたの祈りを聞いている
宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福⾳書6章5~15節
2026年10⽉4⽇
Ⅰ.⽣活の中で祈りを献げよう
今日はお祈りの話です。
私にとっての祈りの原風景と言えるようないくつかの「祈る姿」が今思い浮かんでいます。
もう20 年も前の話ですが、私が伝道師として初めてさがみ野教会に赴任してきたときのことです。4 月1 日でしたでしょうか。その日は平日でした。私は当時教会堂の一階にお住まいだった佐藤先生ご一家と一緒にお昼ご飯を食べました。その席でのことです。新学期の準備をしていたお子さんが学用品の準備で何かの失敗をしてしまって泣いていた。その時、佐藤先生が「お祈りしようね」と言って、お子さんのためにお祈りをなさった。子どもにも分かる、率直な言葉で。それを目の当たりにして、私は、なんて生活に密着した祈りだろうと感動を覚えました。
他にも、ある女性のキリスト者がいます。家の中で捜し物をしていたのだけど、どうしても見つからない。彼女は家族を呼び集めてお祈りをしました。「神様、捜しているものが見つかりますように」と。これもやはり生活に密着したお祈りです。
神様は、あなたの祈りを待っていてくださいます。耳を傾けてあなたの言葉を聞き、目をこらして祈るあなたを見つめておられます。祈りは、神が私たちと出会ってくださる場です。
Ⅱ.⼈からの報いと神からの報い
6 節で、主イエスはとっても面白いことをおっしゃっています。「そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」父なる神さまが報いてくださる、祈りには報いがある、お祈りすると良い事がある、と主イエスはおっしゃいます。
どんな良い事があるのでしょうか?先ほどの捜し物をしている人ですが、私もその場にいたのですが、お祈りの後にその捜していた物が見つかったのかどうかは、残念ながら覚えていません。ただ、祈って見つかることもあれば、祈っても見つからないこともあります。それでは、祈っても祈らなくても同じなのでしょうか?祈っても見つからないこと、祈らなくても見つかることもあるのですから。
いや、やはりそういうことではないのだと思います。そういうこととちょっと違う、祈りでしか得られない神様からの報いがあるのではないでしょうか。
どういうことか?
まず、主イエスは、人に見てもらおうとして祈るな、と言っておられます。人に褒めてもらうためのお祈りは間違っている、と。人に褒めてもらうことを目指して祈るなら、人から褒められたことで、もう報いを受けてしまっている。そうしたら神様からの報いなんて頂きようがない。だから祈るときには人から褒められないように隠れたところで祈れ、そうしたら隠れたことを見ておられる天の父があなたに報いてくださる。主イエスはそう言われます。
主イエスは祈りを教えるときに、人から褒められるか神から褒められるかという話からお始めになりました。
とっても面白いと思います。人から褒められたい。誰でもそう思うでしょう。私だってそう思います。はっきり言って褒められれば嬉しいし、できればけなされるよりは褒められたい。しかも、教会の仲間から祈りについて褒められたら何より嬉しい。
しかしそうやって人から褒められたと言って喜んでいるとき、私たちの視野はとても狭くなっていると思います。凄く近視眼的になってしまっている。再び褒めてもらうにはどうしたら良いか。逆に失敗して恥をかかないためにはどうしたら良いか。そういうことで頭がいっぱいになってしまいます。そうすると、いかにもそれっぽい、よさそうな祈りの言葉に埋もれていきます。とても立派に見えるけれど実は凄く空しい祈り、ということになりかねないのです。
主イエスは言われるのです。そうではない、と。そうではなく、隠れて、神様だけの前で祈れ、と。隠れたことを見ておられるあなたの天の父があなたの祈りに耳を傾けていてくださるのだから、と。
Ⅲ.私以上に私の必要を知っている⽅
主イエスは更におっしゃいます。「祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」
つまり、私たちに本当に必要なこと、私たちが本当に祈るべき事は、神様の方がよくご存じだ、ということではないでしょうか。
これはかなり衝撃的な言葉です。それならわざわざ祈る必要なんてないんじゃないか、最初から全部分かっているというなら、という話になりかねない。
私たちは思い込んでいるのです。自分に必要なものは自分が一番よく知っている。その欠けや必要を埋めるために私にはあれが必要だ、これを下さいと祈る。でもそれが叶えられるかどうか分からないから言葉数がどんどん増えていく。結局思い通りにならなければ、祈りなんて空しくなってしまう。
ところが主イエスは、私たち以上に神様の方がよくご存じなのだと言われます。私たちは本当に何を必要としているのか。本当に私たちが祈り求めなければならないことは一体何なのか。ですので、主イエスは具体的に「こう祈れ」と言って、主の祈りを教えてくださいました。
これこそ神様ご自身が私たちに求めておられる祈り。神様の前に捧げるべき真実な祈りです。
主の祈りなのです。私たちに本当に必要なのは。誰も見ていない、奥まった部屋。倉庫か押し入れ。ほんの片隅で、人知れずに献げる。主の祈りを。この小さな祈りはキリストご自身が教えてくださった祈りです。実は、これは世界を変革する祈りです。
天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように
天におけるように地の上にも。
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。
ここには、私たちが祈りのときによくやっている「報告」はありません。私はこんなに困っています。私たちはこんなに悲惨です。主の祈りにはそういう「報告」はありません。むしろこんな私たちに実現されるべき神の御心を想像力豊かに語り出している祈りです。
私が母教会でたいへんお世話になった女性がいました。
一年と少し前に亡くなりました。晩年は北海道でお過ごしになっていたので、あまりお目にかかれなかったのが心残りです。この方は毎日時間をかけて新聞を読み、一つひとつの記事を読むごとに祈りをしていたそうです。
事件や事故の被害者のため、あるいは加害に及んでしまった人のため。戦争の犠牲になっている人のため。自然災害に被災した人のため。
私は、彼女の祈りは主イエスが教えてくださった「御国が来ますように」という祈りそのものだと思います。私たちも、この世界に神が御国をもたらしてくださいますように、と祈ります。神様の御心に私たちの現実を重ね合わせながら祈るのです。
Ⅳ.御国が来ますように
ある米国の牧師がこのような祈りを残しています。
私たちには理解できません。
なぜ、罪のない人たちが虐殺されねばならないのでしょうか。
私たちは知っています。
あなたの御国は暴力と苦難の中に来る、と。
私たちの時代はあなたの御国が来るのにふさわしい時代です。
私たちには十分すぎるほどの暴力と苦難があるからです。
今この時代に神の国は来なければならない。だからこそ、主イエスは私たちに「御国が来ますように」と祈れとお命じになったのです。
私たちは神の国を待ち望んで祈ります。主がそうお教えくださったからです。そして私たちは、私たちの互いの人間関係が赦しの関係になることを願って祈ります。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。」そう祈る者を主ご自身が新しくしてくださることを信じているからです。
天の父は必ず私たちの祈りを聞き、私たちを新しく造り変えてくださいます。
それが祈る者への神様からの報いではないでしょうか。
天の父は、祈る者を神の国に生きはじめた者として新しくしてくださいます。
一人で祈り続けることは簡単なことではありません。
私たちは、祈るときには奥まった部屋で独りになって祈ります。しかし、そのときにも私たちは教会という祈りの共同体に連なって祈っています。ここに神の国が始まっているからです。私たちは一人で祈っているときにも、神の国の一員として祈る。祈りの共同体に生きている。
世界を新しくする祈りを、キリストは私たちキリスト教会に託してくださったのです。

