平和という宝物を手にしよう
<秋の歓迎礼拝> 和田一郎牧師 説教要約
2026年10月4日
マタイによる福音書13章44-46節
Ⅰ.人はみな「宝」を求めて生きている
今日は歓迎礼拝です。礼拝に来るのは初めて、久しぶりだという方々を歓迎いたします。黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』という本があります。この本には、読んでいて思わず笑ってしまうような、楽しい出来事がたくさん出てきます。トットちゃんは、落語が大好きでした。ある日、お父さんの仕事仲間がお土産にバナナを持ってきてくださいました。お父さんの友人に丁寧におじぎをして、こう言いました。「おっ母ぁ、こいつは、おんの字だぜ!」落語を聞きすぎて、すっかり噺家の言葉が身についてしまっていたのです。それ以来、落語を聞くことを禁じられてしまったという話です。
本には、こういう明るい話がたくさんあります。ところが、この物語にはもう一つの背景があります。それは戦争です。トットちゃんが学園で過ごしたのは、日本が戦争へと突き進んでいった時代でした。世の中から少しずつ物がなくなり、食べるものも乏しくなっていきます。大人たちは戦争へ行き、東京にも空襲の危険が迫ってきます。そして、あれほど楽しかった学園も、ついには空襲によって焼けてしまいます。考えてみれば、『窓ぎわのトットちゃん』は、決して明るい時代を描いた物語ではありません。暗い時代の中にあった、明るい物語なのです。では、なぜこんなに明るいのでしょう。
豊かな時代ではありませんでした。むしろ、目に見えるものは、次々と失われていった時代でした。それでも、トットちゃんの心の中には、誰にも奪うことのできないものが残っていました。自分を受け入れてくれる人がいること。「君は本当はいい子なんだよ」と信じてくれる人がいること。自分はここにいていいのだ、と思えること。そういうものは、お金で買うことはできません。手で触れることもできません。しかし、人が生きていくうえで、それはとても大きな力になります。愛されたい。赦されたい。心穏やかに生きたい。荒れた世の中にあって、私たちが本当に求めている宝の一つは、「平和」ではないでしょうか。それは「目には見えない宝物」です。今日は聖書から、その「目には見えない宝物」について考えてみたいと思います。
Ⅱ.イエス・キリストは「隠された宝」を知らせる方
イエス様は、「天の国は、畑に隠された宝に似ている」と言われました。不思議なのは、ただ「宝がある」と言われたのではなく「隠された宝」と言われたことです。なぜ隠されているのでしょうか。それは、そこに確かにあるのに、多くの人がその価値に気づいていないのです。畑を見ただけなら、土があり、草が生えているだけの何の変哲もない場所です。しかし、その土の下に、とてつもない宝が眠っている。宝を発見する前と後とでは、同じ畑であっても、まったく違って見えるでしょう。信仰にも、それと似たところがあります。キリスト教会に行ったことのない方、聖書を読んだことのない方にとっては、神様の存在は、私たちから遠く離れた特別な場所にあると思われるかも知れません。まだ気づいていないだけで、すぐ近くに、いや、すでに私たちの人生の中に関わってくださっているのです。
イエス様は、誰もがひと目見て「この方こそ神の子だ」と分かるような姿では来られませんでした。貧しい場所に生まれ、権力者としてではなく、人々に仕える者として歩まれました。そのイエス様の周りに集まったのも、社会の中心にいる人たちばかりではありません。病気に苦しむ人、周囲から遠ざけられていた人でした。そういう人々にイエス様は近づき、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招かれました。「立派になってから来なさい」でも、「自分をきれいにしてから来なさい」でもありません。疲れたままで、重荷を抱えたままで来なさい、と言われるのです。
私たちも、人には見せないさまざまな重荷を持っています。自分でも好きになれない自分、誰にも分かってもらえない寂しさ。私たちの心の中には誰にも見えないものを抱えているものです。イエス様は、それをすべて知ったうえで、「私のもとに来なさい」と言われます。なぜなら、イエス様は私たちを裁いて遠ざけるためではなく、神様のもとへ連れ帰るために来られた方だからです。
そのことが最もはっきりと現れたのが十字架でイエス様が死なれたことです。しかし、十字架ほど「宝」からほど遠くに見えるものはありません。罪人を処刑する道具ですから。人々の目に十字架は敗北であり、すべてが終わった場所に見えたことでしょう。「この人が本当に救い主なら、なぜ十字架で死ぬのか」と思った人もいたはずです。ところが聖書は、まさにその十字架に神様の愛が現されたと語ります。人間の罪を背負って死なれた。人間の罪を赦すために死なれたのです。十字架には、神様の愛という大きな宝が隠されていたのです。ですから、キリストを知るということは、単にキリスト教についての知識を持つことではありません。「私は神様に愛されていたのだ」と知ることです。自分が神様を探し当てたと思っていたけれど、実は、そのずっと前から神様が自分を待っていてくださった。振り返れば、見えないところで支えられていた。そのことに気づくことなのです。
『窓ぎわのトットちゃん』に出てくる校長先生は、トットちゃんに「君は、本当は、いい子なんだよ」と繰り返し語っていました。黒柳徹子さんは、地元の小学校では、落ち着きがない、はみ出してしまう困った子と先生から言われ、もう面倒見切れませんと言われてしまって、東京の学校まで通うことになってしまったのです。ところが、はみ出すことがあっても、校長先生はその子の中にあるものを見ていました。本人さえまだ気づいていない良さを見つけ、大切にしたのです。福音にも、それに通じるところがあります。私たちは、自分の価値を、どれだけ人の役に立ったか、人から認められたかということで測ろうとします。しかし神様は、もっと深いところで私たちをご覧になり、「あなたは私にとって大切な者だ」と語ってくださいます。その神様の思いを私たちに知らせるために来られた方が、イエス・キリストなのです。イエス様が私たちの平和を実現してくださいました。
Ⅲ.キリストがくださる宝は「平和」
聖書が語る「平和」は、単に戦争がないことや、嫌なことが起こらないことではありません。イエス様は「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。」と言われました(ヨハネ書14:27)。大切なのは、「私の平和」という言葉です。人生には、病気もあります。人間関係の悩みもあります。世界を見れば争いや憎しみもなくなりません。キリストを信じれば、それらが全部消えてしまうわけではありません。しかし、その信仰の中で「あなたは一人ではない。私はあなたと共にいる」とキリストは言ってくださるのです。
聖書の平和、シャロームとは、神との関係が回復され、神に愛され、赦され、共に生きるところから生まれる平安です。
Ⅳ.この宝は、誰にも奪うことができない
今日の聖書箇所に、畑の宝を見つけた人は、44節「喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う」とあります。ここで中心にあるのは「犠牲」ではなく、「喜び」です。この人は、それほど素晴らしいものを見つけたのです。世の中には値段のつく宝があります。しかし、お金では買えない宝があります。愛されること。赦されること。希望を持つこと。そして、何があっても「神が私と共にいてくださる」と知ることです。
世の中が荒れていても、自分の人生に嵐が吹いても、キリストの平和は、外側の状況に左右されません。だからこそ、この平和は「宝」なのです。もしかすると、今日までその宝に気づかずに歩いてこられた方もいるかもしれません。しかし、気づいていなかったからといって、宝がなかったわけではありません。畑の中の宝が、発見される前からそこにあったように、神様の愛も、その人が気づく前から、その人に向けられていました。それが、イエス・キリストによって与えられる平和です。
「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」このキリストの言葉を「宝」として、受け取っていただきたいのです。
お祈りいたします。


