食卓の下にも届く恵み
和田一郎牧師 説教要約
2026年9月27日
イザヤ書56章1-8節
マルコによる福音書7章24-30節
Ⅰ.悟りを導く問答
今日は、イエス様と一人の女性との会話が話の中心です。短いやり取りですが、初めて聞くと、戸惑う言葉が出てきて禅問答のようです。禅問答のある話があります。一人の修行僧が、偉いお坊さんである趙州(じょうしゅう)に問いました。「仏教の教えでは、すべての生き物に『仏の心』が備わっていると言いますが、犬にもその仏心はありますか、ありませんか?」趙州はあっさりと一言、こう答えました。「無(む)」と。ここでいう「無」は、有るか無いかの「無」ではありません。虚しさを表す「無」でもありません。趙州は「無」と答えることで、「そんな二択で物事を考えるものではない」としたのです。質問した僧は、「あるか、ないか」「正しいか、間違いか」という、白黒はっきりした考え方に縛られていました。それに対して趙州は「ある・ない」「勝ち・負け」「自分・他人」といった、人間の中で作り出した区別を超えた大きな境地を示したのです。 禅問答では、こうした「正しい答え」という枠組みを捨てた、広い知見が求められるようです。
今日のイエス様と女性の会話は、初めて聞くと戸惑いますし、また難解で難しく感じる箇所です。今日は、この会話に耳を傾けます。
今日の箇所に至るまで、イエス様の周りでは何が起こっていたのでしょうか。マルコによる福音書6章では、イエス様のもとに大勢の人が集まります。人里離れた場所で食べ物がなくなると、イエス様は五つのパンと二匹の魚を取り、人々に分け与えられました。五千人の人々が食べて満腹し、パンのかけらはなお残りました。主の与えるパンで心身とも満たされた業を、弟子たちは目の当たりにしたのです。
その後、エルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者たちが、弟子たちの食事の仕方を問題にします。弟子たちが、昔から伝えられてきた清めの作法に従って手を洗わずに、パンを食べていたからです。これは衛生の話というより、食事の前に身を清める宗教的な習慣をめぐる問いでした。
イエス様は、人間の言い伝えを守ることに熱心になるあまり、神の戒めをないがしろにしていないか、と問い返されます。そして、人を汚すものは外から入る食べ物ではなく、人の心から出てくる悪い思いだと教えられました。食卓をめぐる議論を通して、イエス様は「何が人を汚すのか」という、もっと深い問題を示されたのです。
Ⅱ.異教の地ティルスへ
その後、イエス様はガリラヤ地方を離れ、ティルス地方へ行かれました。ティルスは、ガリラヤ湖畔の町カペナウムからの北西100キロほどの道のりを行った所にある異邦人の港町です。エルサレムから来た人々との対立を経て、危険を感じて退かれたのでしょうか。そう考えることはできますが、マルコはティルスへ行かれた理由を明確にしていません。本文が伝えるのは、イエス様が家に入って人に知られずにいようとされたことだけです。しかし、イエス様の評判はこの異邦人の地にも伝わっており、隠れていることはできなかったのです。
そこへ一人の女性が、イエス様のことを聞きつけてやって来ます。幼い娘が汚れた霊につかれていたのです。娘を助けてほしい。その一心で、女性はイエス様の足もとにひれ伏しました。マルコは、彼女がギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれだったと記します。ユダヤ人から見れば、異邦人です。先の食事の前に手を洗う昔からの言い伝えで、律法学者とファリサイ派との間で、「清いもの」と「汚れたもの」をめぐる議論がありました。そして今、ユダヤ人から見て「汚れている異邦人」の女性がイエス様の前にいます。ユダヤ人が引いてきた清いものと、汚れたものの境界線の向こう側から、一人の母親が助けを求めて来たのです。
イエス様がティルスへ行かれた目的を、本文は明記していませんが、清いお方である主イエスと、汚れた異邦人の女性との出会いが起こります。
Ⅲ.「食卓の下の小犬でも」
女性の願いに対し、イエス様はこう言われました。27節「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない。」「まず」という言葉に注目したいと思います。イエス様は、神の約束を受けてきたイスラエルの民に、まず福音を告げておられました。そこには順序があります。しかし女性にとって、娘の苦しみは今ここにあります。「まず」と言われたこのときにも、娘は助けを必要としているのです。
また、「小犬」という言葉も、私たちには冷たく、侮辱的に響きます。「犬」ではなく「小犬」と言ったのですが、それでも女性を敬うようには聞こえません。イエス様の言葉には、イスラエルの民と異邦人との間にある隔たりが、はっきり表れています。この言葉をどう受け止めるかについても、慎重な読み方が必要です。
ところが女性は、そこで憤慨したり嘆いたりすることなく、引き下がりませんでした。イエス様の用いられた食卓のたとえの中で、答えます。「主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます。」彼女は、子どもたち、つまりユダヤ人からパンを取り上げて、私にパンを下さいとは言いません。「食卓の下にいる者にも、パン屑は届きます」と願うのです。娘のために、イエス様から離れず、なお恵みを求めています。
「パン」と聞くと、少し前に記された五千人の給食が思い起こされます。イエス様が与えられたパンを食べて、人々は皆、満腹しました。しかも、食べ終わった後にはパンのかけらが残りました。女性があの出来事を知っていたかどうかは、本文には書かれていません。それでも、福音書を続けて読む私たちは、主の与えるものの豊かさを思い起こすことができます。
女性は、パン屑ほどの恵みでもよいから、娘に届けてくださいと求めました。それは「娘の苦しみなら、パン屑ほどの恵みで十分です」と軽く考えたからではありません。イエス様の恵みなら、それほど小さく見えるものにも、娘を救う力があると信じて求めたのでしょう。
そして、ここにも直前の議論とのつながりがあります。人々が清い、汚れていると分けていた食べ物について、イエス様は教えられました。今度は人について、私たちが引く境界線が問われます。汚れているとされた異邦人の女性の願いを、イエス様はどう受け止められるのでしょうか。
マルコ福音書をさらに読み進めると、イエス様は「最後の晩餐」の食事でパンを取り、ご自身の体について語られます。今日の食卓のたとえは、その場面と直接的な同じ意味ではありません。しかし私たちは、娘のために恵みを求めるこの女性の姿から、ついにはご自身の肉の象徴としてパンを与えてくださる主のもとへと、目を向けることができます。
Ⅳ.隔ての壁を越えて届く平和
イエス様は女性に言われました。29節「その言葉で十分である。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出て行った。」女性が家に帰ると、娘は床に寝ており、悪霊は出ていきました。
母親は娘を連れて来ることができませんでした。ただ一人でイエス様のもとに来て、娘のために願いました。イエス様は、その言葉を聞き、離れた場所にいる娘を癒やされました。母と娘のいる家にも、主の恵みは届いたのです。
イエス様がティルスに来た目的は何だったのでしょうか?汚れているとされた異邦人の土地に、聖なる方が来られた。隠れて静かにしようとされましたが、汚れた者と、清い者、二つの者が出会い、癒しの御業が起こりました。
エフェソの信徒への手紙は、キリストこそ「私たちの平和」であり、隔ての壁を取り壊されたと語ります。ユダヤ人と異邦人との間にあった敵意を、キリストはご自身によって終わらせ、新しい一つの民を造られます。このティルスでの出来事には、その福音の広がりを見る事ができるのです。
私たちも、あの女性と同じく異邦人です。自分には食卓の席がない、主に願う資格がない、と感じることがあるかもしれません。また、家族や身近な人の苦しみを前に、何もできないと思うこともあるでしょう。そのとき、娘のためにイエス様の足もとへ来た女性を思い起こしたいのです。彼女は自分の力を示したのではありません。ただ、主に助けを求めました。
主イエス・キリストは、隔ての壁を越えて平和を与えてくださる方です。私たちも主のもとへ行くことが赦されています。主のもとに招かれています。そして、主のもとに行き、家族のために、地域に生きる人々のために祈りましょう。命を養う恵みを与えてくださる主を信じ、その食卓に共にあずかっていきたいと思います。お祈りいたします。


