起き上がりなさい
松本雅弘牧師 説教要約
詩編42編2-12節
ヨハネによる福音書5章1-16節
2023年7月9日
Ⅰ.はじめに
今日の聖書の箇所は、洗礼入会準備会の第一回目に取り上げる聖書の箇所で、皆さんの多くは、よく親しんでいる箇所だと思います。
Ⅱ. あらすじ―「ベトザタ」という一種の競争社会
エルサレム神殿からあまり離れていないところに「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。これはヘブライ語で「恵みの家/慈しみの家」という意味ですが、その池には病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていました。それはその池に、ある種の癒しの力があると言われていたからです。
その池は、ときどき水が動いた。それは〈天使の仕業だ〉とか〈水面が動いた時、最初に池に飛び込んだ人の病気は治る〉といったうわさが広まっていた結果、癒しを求めて大勢の人が集まって来たのです。そうした彼らが横たわっていた。
ユダヤの地は日差しが強いことで有名です。きっと誰かが集まっていた人たちのことを気の毒に思ったのでしょう。池の周囲を囲む「回廊(屋根つきの廊下)」が作られたのです。そう考えますと、ある人が言っていましたが、まさに「ベトザタ」、すなわち「恵みの家/慈しみの家」と呼ばれるくらいですから、「ベトザタホーム/恵みの家」と名付けられた、一種の野外病院のような場所だったと思います。
さて福音書を記したヨハネは、大勢いた人々の中に、38年の間、病に苦しむ一人の人がいたことを私たちに伝えています。専門家たちはこの「38年」が何を意味するかを真剣に問うています。例えば申命記2章14節を見ますと、「荒れ野の40年」を「38年」と表現しています。彼はほぼ一生、この病との付き合いで終始してきました。まさに「荒れ野」のような一生を生きて来たのかもしれません。
38年、取り戻すすべもなく過ぎ去っていく人生の時計の針を眺め、自分の人生は全く何の役にも立たなかったと考えていたかもしれません。一日で例えるならば、日が暮れかけて来て、落胆すると同時に、怒りが湧いてきます。そうです。自分が見られていない、認められていないと感じる人生の時期、そんな人生の季節を彼は経験していたのではないでしょうか。みんな自分のことで精一杯でしたから…。
でもそうなのでしょうか。そんな彼を見、知ってくださる人がいたのです。主イエスです。「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」。ヨハネは、たった二つのイエスさまの動作を表す小さな言葉、「見る」と「知る」という二つを通して、彼に対する深い愛をもって出会ってくださるお方が居たこと、それを伝えているのです。
イエスさまのことを「対話の達人」と呼んだ人がいましたが、面白いですね。考えてみれば、この人は良くなりたいからここにいたのです。「恵みの家/慈しみの家」と呼ばれるベトザタの池までやってきている。でも彼はずっと期待外れの経験をしてきました。恵みや慈しみを数えることができないでいたのです。
普通でしたら、「良くなりたいか」と問われれば、「イエス/ノー」で答えるものでしょう。「はい、良くなりたいです」、あるいは「いいえ、その必要はありません」と返答するのが自然です。ところが、彼の答えはそのどちらでもありません。 「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです」と答えたのです。
彼は本当に絶望していた。いや、私はこの言葉に深い絶望の響きを感じます。彼の周りには「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」がいました。そうした彼らが、ベトザタの池で生活できていたという事実は、誰かが食事を運び、介助し、あるいはまたお互い助け合いながら生活していたからでしょう。ところが、静かなベトザタの水面が、いったん動き出すや否や、「静かなベトザタの池」が一種の「競争社会」に変化してしまうのです。水面が動くと同時に「病人対病人」、「人間対人間」といった、ある種の競争が起こったのです。
希望をもってベトザタの池までやって来た。だって「恵みの家/慈しみの家」という名前が付いている池でしたから…。ところが現実はと言えば、〈こんなはずではなかった〉という経験です。ですから彼は訴えたのです。「私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまう」。水が動いても「私を池の中に入れてくれる人がいません。みんな自分のことで精一杯。私を心に掛けてくれる人など誰もいません。私はもう駄目なのです…。」そうした人間不信と深い絶望の心をイエスさまにぶつけているのです。
Ⅲ. 「起き上がりなさい」
さて、こうした彼に向かって主イエスは突然お語りになりました。正確に言えば語られたというよりも命令しておらます。「起きて、床を担いで歩きなさい」。
ここで38年間、重い病で苦しんでいた彼に向かって「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命令された。癒していただいて初めて、起き上がったのではないのです。原因と結果が、ここでも逆転するのですが、主イエスはそのことを彼に求めたのです。
ところで、私が主イエスの導きの仕方に深い配慮を覚えるのは、この命令に先立つ「良くなりたいか」という問いかけです。「あなたは、本当に良くなりたいと思っていますか。本当に良くなりたいのですか。あなたが、このベトザタの池に来た、そもそもの目的って何だったのですか?」と、彼の本来的な、そもそもの願いを呼び覚まさせようとしておられるように思うのです。
私たちにとって、教会はベトザタの池のような存在だと思います。様々なニーズをもって教会に集うわけです。そして主イエスを知り、今、信仰生活を送っている。そうした私に向かって「良くなりたいか」という言葉は、どのような意味があるのだろうかと思うのです。本当にクリスチャンとして、永遠の命に生き生きと生活したいと思っていますか。御心に生きようと思っていますか。それとも単にご利益を得ようとだけ願っていますか。そうした上で、もう一度、信仰をもって立ち上がり、主イエスに従うようにと招いてくださる。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。
実は、「起きる」という言葉は、元々は「目を覚まさせる」という意味の言葉です。ヨハネ福音書2章19節に、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と主イエスが言われましたが、その「建て直す」も同じ言葉です。ですから、「死人を復活させる」という意味でも用いられます。
主イエスは、諦めの中にあった。絶望しきっていた彼を、あたかも死人を復活させるようとしておられるのです。しかも、「床を担げ」と言われます。この「床」というのは、これまで彼が横たわっていた場所、ここに居たら、どうにか生きていけます。でも本当の意味で充実はなかったでしょう。その床を取り上げてしまいなさい、とおっしゃるのです。そして歩く。歩き始める。そこから前進していくのです。
Ⅳ. 「もう罪を犯してはいけない」
ところで、彼はこの後、神殿の境内で主イエスと出会いました。その彼に対して主イエスは、こう語っています。「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
これは、彼が病気であったのは罪の結果であったとの誤解を与えかねませんが、主イエスはそうした理解を生まれつきの目の見えない人との出会いで否定しています。だとすれば、ここでの罪とは何でしょうか。ある専門家は、罪とは主を拒むことだと定義しています。
例えば、「山上の説教」の最後で主イエスは、「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。」と語られました。「主よ、主よ」とは祈る時に使う言葉です。でも、祈りは願い通りに主イエスを動かすための手段ではなく、主との交わりを深めるためのものでしょう。ところが「主よ、主よ」と言いながら、結果として、「あなたがたのことは全然知らない」と言われてしまう可能性がある。祈りを通して、主と親しくなっていないのです。
これは、他人ごとではないと思います。私たちも主イエスと出会って、彼と同じように立ち上がらせていただきました。新たな歩み出しをしたのです。それがクリスチャンであるということでしょう。しかし、気を付けなくてはならないのは、それはスタートであってゴールではない。洗礼を通してぶどうの木であるキリスト、キリストの体なる教会に繋がった私たちは、続けて、キリストに繋がり続けていくことが大切なのです。いつも新しくその言葉を聞き、新しく立ち上がらせていただかないと、私たちはイエス・キリストを見失ってしまうからです。
主イエスの「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という言葉を、私たち自身に語られたものとして、新しく聞き、歩み出したいと思います。
お祈りします。


