これは私の愛する子

和田一郎牧師 説教要約
2024年6月2日
詩編2編7-9節
マタイによる福音書3章13-17節

Ⅰ.洗礼と試練

 4月から、イエス・キリストの生涯を4つの福音書から読み進めています。「初めに言があった」というキリストの啓示から始まって、ヨセフとマリアへの告知、今日はイエス様が「洗礼」を受ける箇所にきています。「洗礼」を受けるという出来事から公生涯がはじまるのです。
「洗礼」という言葉を辞書で引いてみると「避けて通れない試練のたとえ」、「その後の人生を左右するような特異な体験」とありました。たとえば「新入部員が100本ノックの洗礼を受ける」といったことに使われますが「洗礼」と「試練」はセットになっていて、その後の人生の糧となることを意味しているでしょう。

Ⅱ . 預言の成就   

  旧約聖書の時代からユダヤ人達は、メシアの到来を期待していました。そこに洗礼者ヨハネと主イエスの二人が「現れた」のです。このマタイ福音書を書いた著者マタイは、イエス様がメシアであることを受け入れなかった人々に向けて書かれたと言われています。ですから、洗礼者ヨハネとイエス様の二人が預言された通りの人であることを伝えようと書き記しているのです。1章でキリストの系図から書き始め、処女マリアから生まれるというイザヤの預言やベツレヘムで生まれたことなどです。ヨハネがメシア到来の道備えのために現れたのは、イザヤ書の預言の成就だとマタイは伝えています。

Ⅲ . キリスト者の洗礼

今日は11時礼拝で洗礼式が行われますが、洗礼者ヨハネから受けた洗礼と、私たちが受ける洗礼とは大きく違うわけです。マタイによる福音書28章18,19節で、イエス様が弟子たちに「私は天と地の一切の権能を授かっている・・・彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われました。私たちが受けた洗礼は、イエス様の権威によって与えられるものです。キリスト者の「洗礼」は、具体的に何を表しているのでしょうか?
1つ目は、神様との関係における意味です。洗礼を受けることは聖霊のバプテスマの象徴です。神を信じて従って行く象徴です。イエスは弟子たちに、「父、子、聖霊の名によって洗礼を授け」るように命じました。そして、私たちは父、子、聖霊なる三位一体の神を信じて従って行く象徴として洗礼を受けるのです。
2つ目は、自分自身との関係において、古い人が死に、新しい人が生まれた象徴です。パウロは、「あなたがたは、洗礼によってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ2:12)と述べています。新しく生まれかわった象徴として洗礼を受けるのです。
3つ目は、隣人との関係における意味。公にキリストの弟子に加えられるという象徴です。ペトロの説教を聞いて「人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」(使徒2:41)のです。私たちは、公にキリストを中心とする神の家族に加えられる象徴として洗礼を受けるのです。それは具体的には「使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしている」とあるように教会の一員となり、世界中の兄弟姉妹と神の家族とされることです。

Ⅳ . イエス・キリストの洗礼

洗礼者ヨハネは3章11節「私の後から来る人は、私より力のある方で、私は、その履物をお脱がせする値打ちもない。」と言っていました。さながら自分は前座で、真打はこの後からという感じです。そこにイエス様が現れたのです。ヨハネから洗礼を受けるためでした。洗礼者ヨハネは、悔い改めに導くために人々に洗礼を授けていたのですが、イエス様は、悔い改める罪もない方です。イエス様はどうして、洗礼を受ける必要があったのでしょうか。それは人々と同じように洗礼を受けられることによって、人と等しくなられ、罪人である私たちと共に歩むためだったのです。
イエス様の三年ほどの公生涯は、罪人である私たちの身代わりとなって死ぬために歩まれた三年でした。イエス様の受洗は、公生涯における最初の出来事です。洗礼を受けることによって、罪人の立場に身を置いて、公生涯の初めから罪人の中を歩み十字架へ進まれました。
イエス様は、3章15節で「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」と言われました。「すべてを正しく行う」とは、神の計画と目的に従って、罪人の立場に身を置かれて、十字架への道を歩まれることを意味しているのです。
この書を書いたマタイは、イエス様の弟子になる前は罪人と呼ばれた徴税人でした。
収税所で座り込んでいた罪人マタイに「私に従いなさい」と言われた。マタイは立ち上がったのです。イエス様が、罪人の中に来てくださった。人々が思いもしなかった所に来てくださってマタイを立たせることになったのです。イエス様は、憐れみによって罪人を癒やす医者なのです。罪人たちと一緒に食事をなさったのも、神の憐れみによって彼らを癒し、立ち上がらせて生かすためでした。「私に従いなさい」。この招きによって、私たちは洗礼を受けたのです。マタイのように、生まれてきた意味も希望もないという人に、周りの人たちからはみ出している人に、病気の人にも、もう人生が終わろうとしている人にも、主は「私に従いなさい」と召しておられます。
「私に従いなさい」と命じる主イエス・キリストは、私たちが歩むべき道を知っている方です。私たちの行くべき道を準備してくださっている方です。なぜなら、私たち罪人の為に、罪人と同じように洗礼を受けてくださり、罪人と共に歩んでくださったからです。
今日は、はじめに、「洗礼」を受けることと「試練」を受けることはセットになっているという話をしました。キリストに従うことは、時としてこの世の価値観と違っているのです。この世の常識とは違うビジョンを与えられます。そこに試練があるのです。しかし、キリスト者として避けて通れない試練は、その後の人生を正しく生きる貴重な体験となるはずです。従って行く先には希望があります。
罪人と同じように受洗されたイエス様に、天から声がありました。3章17節「これは私の愛する子、私の心に適う者」という、父なる神の声です。父なる神が、これは私の愛する子と言われ喜びを表してくださいました。私たちもこの愛の関係に招かれています。その「愛」の関係に加えられた象徴が「洗礼」です。
私たちはその、豊かな交わりの中にあります。神の家族に加えられた恵みがあります。生きる意味、生きる目的は「私に従いなさい」と言われた主に従い、喜びの家族、神の家族の輪を豊かにしていくことです。
この一週間、主に従って「洗礼」を受けた者の恵みを証ししていきましょう。
お祈りいたします。