この悩みをも、神は忘れずに
宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福⾳書第1章18~25節
2026年2⽉1⽇
Ⅰ.「共に⽣きる」ことの難しさ
つい先日、保育園の礼拝で主イエスさまが12 歳の時のお話しをしました。イエスさまが両親と共にエルサレム
の神殿へ行かれたときの出来事です。子どもたちに尋ねました。「イエスさまのお母さんとお父さんとお名前、知
っているかな?」そうすると子どもたちは元気に答えました。「マリアとヨセフ!」マリアは覚えていてもヨセフ
の方はちょっと難しいかなと思いましたが、子どもたちはクリスマスのお話をよく聞いていたのですね。嬉しか
ったです。
ただ、正直言って、マリアに比べてヨセフは影が薄いというのも事実です。ページェントでも、配役の華はマリ
アであって、ヨセフではないような気がします。更に、最近、ヨセフはいろいろなところで叱られているような
ところもあるように思います。
19 節にこのようにあります。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、
ひそかに離縁しようと決心した。」この当時の社会では、婚約はほとんど結婚と同じような意味を持っていました。
ですから婚約期間中の不貞はたいへんな罪です。場合によっては死をもって償わなければならない、とされてい
ました。ヨセフの婚約者マリアは、まだ二人が一緒になる前に子を宿した。ところがヨセフは彼女のことを表沙
汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようとしました。
ヨセフの決断の裏にあった事情は、このようなことです。
そんなヨセフですが、ヨセフは結局のところ逃げている、と言われるのを最近見聞きします。このときいちばん心
細く、不安だったのはマリアだった。そんな彼女を離縁しようというのは、どんな理由があろうともヨセフの逃
げでしかない。ヨセフはマリアを受け入れるべきだった。
共に生きるべきだった。そのように言って、ヨセフが叱られることが増えてきたような気がしています。
私は、そういう意見もあるのかなとも思いながら、少し悲しい気持ちにもなっています。
ヨセフはこのとき何歳だったのでしょう。私たちの社会よりも初婚年齢がずっと若かったはずですから、精々
10 代半ばか後半か、その程度だったと思います。婚約している女性が突然妊娠した。「聖霊によって」と聖書は言
いますが、ヨセフにはそのようなことが分かるはずもありません。辛かったでしょう、これまで生きてきた中で
一番。ヨセフだって絶望したと思います。本当に、ギリギリのところで、彼女を不貞の罪で殺すのではなくひそ
かに離縁することを決意した。そんなヨセフの思いを責める気持ちにはなれないのです。
私たちはそういう存在なのではないでしょうか。周りから、客観的に見たら、もっとああしたら良いのにとか、
こんなことをするなんて愚かだとか言われてしまうでしょう。バカな判断をしたり、状況を誤って判断したりし
ているでしょう。岡目八目という言葉もありますが、端から見たら何とでも言えるのです。
ヨセフには、マリアと一緒に生きようという決断をすることはできませんでした。それが私たち人間の実際の
姿ですし、私たち人間の現実ではないでしょうか。
「共に生きる」とか「一緒にいる」と言ってもらえると、とっても嬉しいです。マリアに起きたほどのことでなく
ても、たいへんなときや辛い思いをしているとき、自分では抱えきれない現実に呻くときに「一緒にいるよ」「一
緒にやろう」と言ってもらえたら、それだけで「自分も生きていて良いのだな」と思えます。しかし、「共に生き
よう」「一緒に生きていこう」というのは言われれば嬉しいですが、そのように言うのはたいへんなことです。生
半可な覚悟では言えない言葉です。
私にはヨセフを責められない。自分の無力な現実とか、人間としての限界とか、そういうものがこの一人の若者
に現れているように思うのです。
Ⅱ.神は私たちと共にいてくださる
そんなヨセフのところに主の天使が神さまからのメッセージを携えてやって来ました。天使は言います。「ダビ
デの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。」そうです。ヨセフは恐れていました。実は天使はマリアのとこ
ろに来たときにも同じように言っていました。「マリア、恐れることはない。」マリアも恐れ、ヨセフも恐れていた。
そして神さまは二人それぞれに、マリアとヨセフに必要な御言葉を下さったのです。
天使はどうして「恐れるな」と言えるのか?天使は続けます。「マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。」
聖霊、それは神ご自身の力ということです。神の力が働いてマリアの胎に子どもが宿った。私たちは「おとめマ
リアより生まれ」と聞くと、まことに呑気に「そんな話は非科学的な迷信、神話にすぎない」と言ってのけます。
本当に呑気なつぶやきだと思います、ヨセフに比べれば。
神さまはヨセフに、事柄の証明をしようとはなさいません。ちょっとした奇蹟を見せて、「これで信じろ」とはお
っしゃらないのです。ただ、神ご自身が働いて、新しい出来事、救いの出来事がここに始まったとだけ宣言なさ
るのです。
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」イエスという名前には「主は救い」という意味が
あります。マリアから生まれるイエスは、そのお名前のとおり、私たちを救ってくださる。「この子は自分の民を
罪から救うからである。」イエスは私たちを罪から救ってくださる。罪、それは、共に生きることのできない私た
ちの現実です。一緒に生き続けられない私たちの悲しい姿のことです。
だから、この天使の言葉に続けて福音書記者マタイは、この出来事は旧約聖書の御言葉の成就だ、と言います。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。」
共に生きることのできない私たちと、神ご自身が共にいてくださる。ここに救いがある。
思えば、前回ご一緒に読んだ系図のところもそうでした。ウリヤの妻によって息子ソロモンをもうけたダビデ
を初めとして、愛すべき人、家族であっても部下であっても友人であっても、そういう人と共に生きることがで
きない、というのが人間の歴史です。もっと言えば、現代は共に生きること自体をもう諦めてしまっているよう
にさえ見えます。しかし、そんな系図や歴史を抱えた私たちの中に神は飛び込んできてくださいました。ダメな
私たちの歴史の中に、主イエス・キリストは共にいてくださるのです。神は私たちと共にいてくださる。そこに
救いがある。
ヨセフは天使の言葉を聞いてどうしたのか。25 節が報告しています。「しかし、男の子が生まれるまで彼女を知
ることはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
これは、ヨセフが「あなたを信じます」と答えた、ということでないかと思います。あなたが共にいてくださる
ことこそ私たちの救いです、と信仰告白したのではないでしょうか。ある人がこれはヨセフの回心だと言ってい
ましたが、本当にその通りだと思います。
マリアにも、ヨセフにも、主は共にいてくださいます。
私たちとも、神は共にいてくださいます。ここに救いがあります。イエスこそ救い。イエスこそ、私たちと共に
いてくださる神。
Ⅲ.「共に⽣きる」という奇蹟
私たちカンバーランド長老キリスト教会に、石塚惠司牧師がおられる。昨年12 月28 日に奥様の和子先生が
逝去しました。私は和子先生の葬式のお手伝いをする機会を頂き、お書きになったものをいくつか読むことがで
きました。石塚先生ご夫妻は、1986 年にブラジル東北部のバイア州にあるジョタカという日本移民の入植地に
伝道の働きのために赴かれた。まだ小学生だった息子さんたちを連れての渡伯です。89 年に最初の働きを終えて
帰国しました。その後約10 年が経過し、2000 年になって、再びご夫妻でジョタカを訪問する機会があったそ
うです。ジョタカは今では大きな農園となりましたが、土地は非常に痩せており、平らな場所も殆どないような
場所だった。そこから本当に苦労して開墾して生きてこられた場所。最初のブラジル伝道の時にも先生ご一家の
ご苦労如何ばかりであったのかと思います。しかしあれから10 年が経ち、村も発展し、教会の皆さんもお元気
に、大きくなっているだろうと期待して現地へ向かった。
ところが、村も教会も、10 年前よりも状況が悪くなっていた。皆希望を失っていた。それを目の当たりにして、
石塚先生と和子先生も本当におつらかった。自分たちには何もできない。しかし…共に生きることだけはできる
かもしれない。その思いを胸に、2002 年から二回目のブラジル伝道へ夫婦で出発したのです。
二度目の渡伯の翌年に和子先生がお書きになった文章を読みました。このように書かれています。「神奈川の都
会暮らしになれた私たちにとってこの一年はジョタカ村の田舎暮らしはたいへんでした。暑さ、不便さ、虫との
戦いの連続。何をするにも村人の知恵、力を借りなければ生きていくことはできませんでした。2 年目に入りま
した。一年間この地で村人と共に生きていくことを許してくださった主は何をさせようとしてくださるのか、祈
りつつ働き続けます。」先生ご夫妻は、他の何でもなく、共に生きることを望み、そのようになさった。ジョタカ
の人と共に生きた。それが二度目のブラジル伝道だったのです。私たちが主イエスさまを救い主と信じて生きる
とき、こういう奇蹟が起こるのです。共に生きる、という奇蹟です。
そこには人間の破れとか、失敗があって、共に生きるというのは簡単なことではありません。飛び込むのは痛い
ことです。しかし、私の破れや罪の中に主は飛び込んできてくださいました。そのお方が、私たちをも共に生き
る者としてくださる。ヨセフがマリアの元へと遣わされたように。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎え
なさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。」
神さまの救いの出来事が私たちの目の前で始まっています。

